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短編小説 『愛のつながり』

瀬川は書斎の引き出しの中から茶封筒を取り出すと、紐を解き、綴られた原稿をそっと手に取ります。

ここに一編の小説があります。

本当の意味での、小説家瀬川文生の処女作です。
しかし、未発表のままなのです。
瀬川はこれをこの後もこの世に送り出すつもりはまったくありません。
彼は年に一度、今日のこの日に、この原稿を読み返しながら、あるふたりの愛の物語に思いをめぐらせます。

瀬川が小説家を志したひとつの理由に、彼が生まれ育った土地の歴史的な背景がありました。
幼いころからそういう話を聞かされて育ちました。

西南戦争の激戦地。二刀流で有名な剣豪が晩年を過ごし、兵法書を著した洞窟。明治の文豪が作品のなかでモデルとした温泉街。有名な小説家が取り上げた邪馬台国にまつわる場所。前方後円墳のなかから出土した、日本最古の金石文のひとつといわれる、銀象嵌の銘文が刻まれた太刀。
数々の出来事や、歴史的な場所、そしてもの。
日本マラソンの父と呼ばれた人物や、日本のおじいちゃんと呼ばれた有名な映画俳優もこの地方の出身です。

その当時の瀬川は、これらすべてを、他の土地にはないなにか特別なもののように感じていたのです。

そして、この地は海苔の養殖も盛んで、有明海苔の発祥の地でもあります。

高度成長期時代の好景気のときに、この町には印刷やタイヤ関連の大工場などが次々と建てられました。
そういった工場のなかのひとつに、瀬川と正悟が勤める海苔を加工する工場がありました。



「正悟。飯食って行くから、またあとでな」

「うん。玄関の鍵は開けとくから、勝手に入ってくれ」

仕事が終わり、工場の自転車置き場で、瀬川とあとから会う約束をして別れた正悟は、ハンドルがすこし曲がった自転車に跨ります。

瀬川は平原のことを正悟と呼びますが、正悟は瀬川のことを文生と呼ぶことはありません。なぜなら、工場ではお互いに平原と瀬川と呼び合いますが、プライベートなときは、文生だから、〈フーミン〉と呼んでくれと、瀬川からしつこくいわれているからです。

正悟はなぜかその響きがこそばゆくて、口に出していえないのです。
瀬川本人はそう呼ばれたがっていますが、正悟はただの一度も瀬川のことをそう呼んだことはありません。

今日は金曜日。
夜八時からは、正悟も瀬川も大好きなプロレス中継があります。他に無駄使いをすることもない正悟の家には、白黒テレビがありました。
知り合いの知り合いの電器店から、かなり長めの分割払いで昨年購入したばかりでした。

瀬川はそれを目当てに、おつまみとビールを片手に、毎週金曜日の夜は正悟の家を訪れるのです。

正悟の家から自転車で十分ほど離れたアパートで瀬川は暮らしています。
瀬川は母親の再婚相手である義理の父親との折り合いが悪く、三年程まえ高校卒業と同時に、いま勤めている工場で働き始めると、家を出てひとり暮らしを始めました。

正悟も瀬川もひとり暮らし。
互いになんでもいい合える、気が置けない友人同士でした。

正悟は工場を出ると、河川敷の土手につながる急な坂道を立ち漕ぎで登っていきます。

初冬の夕方六時過ぎの河川敷は、もうすっかり暗闇に包まれています。
でこぼこ道にハンドルを取られ、右に左に小刻みにユラユラと揺れる自転車のヘッドライトが、土手の小道を心許なくぼんやり照らしています。

正悟の父は戦死し、母は戦後すぐに他界しました。正悟を育ててくれた祖父母も、三年前に、祖父が亡くなり、その半年後、祖父のあとを追うように祖母も急逝しました。

正悟の祖父母は、もともとはこの町の人間ではありませんでした。
古くからの歴史があり、由緒正しい家の長男として生まれた祖父は、血が濃過ぎると、お互いの家族から大反対をされた、従兄妹の祖母との結婚を、本家の跡取りの座を次男の弟に譲るかたちで押し切り、遠方のこの町に逃げるように移り住んだのでした。

それゆえに、普段から付き合いのある親戚などは近くにひとりもなく、祖父母が亡くなった後、正悟は祖父母が残してくれたこの家で、ひとり暮らすことになったのです。

正悟が家に帰りつき、自転車を玄関の脇に停めたとき、裏の物置き小屋の方からガタガタっと音がしました。
小屋の入り口には見慣れない自転車が停められています。
正悟は近づくと、小屋の扉をゆっくりと開けました。
暗闇のなかに、なにかいます。
一瞬身構えた正悟の耳に、「助けてください。お願いします」と、か細く震えるような女の声が飛び込んできました。

「どうしたんですか? なんでこんなところにいるんです?」

「お願いします。助けてください。助けてください」

驚いた正悟が声をかけると、暗闇のなかの女はそう繰り返すばかり。

「わかりましたから、そこから出てもらえませんか? 乱暴はしないので」

そう声をかけた正悟の優しい物言いに安心したのか、女は恐る恐る小屋から出てきました。

冬の曇天の下の暗闇では、女の顔はよく見えません。
近くの隣家から届く光で、やっと女の姿かたちが確認できました。

女はこの寒空の下、パジャマ姿で裸足でした。そのからだは小刻みに震えています。

「俺は平原といいます。そんな格好じゃ風邪を引きます。とりあえず家のなかに入りましょうか。変なことはしませんから」

正悟は女を安心させるため、自分の名前を名乗りました。

女は、どうしようか躊躇っていましたが、玄関の鍵を開けて家のなかに入っていった正悟に、引きずられるように後に続きます。

三和土に立ちすくむ女の姿を見て、正悟は唖然としました。

髪はボサボサ、顔はいつ洗ったんだろうか、というくらいに薄汚れていました。着ているパジャマも、食べ物の汚れなのか、ところどころ固まっています。

「さあ、なかに入って」

正悟は女のまえに一組のスリッパを置きました。

正悟は女がそれを履くのを見届けると、「こっちに来てください」そういって奥へと進みます。

「ここに座って、ちょっと待っていてもらえますか?」

正悟は居間の真ん中の四角いこたつに女を座らせると、スイッチを入れます。
すぐ側の石油ストーブにも火をつけます。
そして、隣の部屋に行くと、タオルと女のために見繕った着替えを持って戻ってきました。
台所に行き、タオルを濡らし、硬く絞ると、乾いたタオルと一緒に女に手渡します。

「これで顔と足を拭いて。それから、これに着替えてください。俺は向こうの部屋にいますから。着替え終わったら声をかけてもらえますか?」

「ありがとうございます」

女の声は涙声でした。いまだにからだの震えは止まっていません。

「着替えました」

しばらくして女の声がしました。
正悟はそのことばを確認すると、女のいる居間に入ります。

目のまえに怯えるように立ち尽くす彼女の姿は、まるで、大柄な正悟の服に埋もれている小動物のようでした。

汚れを拭い取った彼女は、正悟が思わずはっと息を呑むほど、綺麗な顔をしていました。

正悟が淹れた煎茶を、両手で湯呑み茶碗を包み込むようにして、すこしづつ飲みながら、彼女はポツリポツリと自分のことを話し出しました。

彼女は自分のことを蔵内さつきと名乗りました。
祖父と母親と三人で暮らしている。
自分は、祖父に精神を病んでいるといわれ、自宅に監禁されてもう二ヶ月ほどそんな状態が続いていた、と告白しました。

お腹が痛いと嘘をいって、母親が心配して、監禁されていた部屋のなかに入ってきたところを、押しのけて逃げてきたのだといいます。

裏の物置小屋のまえに停めてあった自転車は、さつきの母のものでした。

正悟が話をしている限りでは、彼女はどう見ても、精神を病んでいる人間には見えませんでした。

『どうすればいいんだろう?』考えあぐねた正悟は、山本に電話をかけました。
山本は、正悟を生まれたときからよく知っている、近くに住む、定年退職を間近に控えた警官です。

「山本さん、すみません。ちょっと相談があるんですけど」

「なんだ? どうした」 

正悟はさつきのことをかいつまんで話しました。

しばらくすると山本がやってきました。
そして、山本が「自分は正悟の知り合いで、警官だ」と名乗ると、さつきはひどく怯えだしました。

「わたし、帰りたくない。帰りたくない。帰りたくなーいっ!」

そういって、大声で叫び、泣き出しました。

そんなさつきの様子を見て、正悟と山本はことばを失いました。

「正悟、彼女をこのまま返すわけにはいかんぞ。それで彼女はどこに住んでいるんだ? 住所は?」

「俺は知りません。彼女がなにも話してくれないんです」

「そうか......俺が調べてみるよ。とりあえず、今夜は彼女をここに泊めてもらえるか?」

自分が訊いても、おそらく彼女は答えてくれないだろう。そう考えた山本は、さつきにそれ以上なにも声をかけませんでした。
それほどさつきの怯えかたは尋常ではなかったのです。

山本は正悟の人となりをよく知っています。女性と一晩ふたりっきりでも、なにも変な間違いはないと信じています。

「なにかわかったら、すぐにおまえに知らせるから」

山本はそういうと帰っていきました。



瀬川は、いつものように正悟の家を訪れていました。

玄関の鍵は開けとくから、といっていた正悟でしたが、鍵は閉まっています。
瀬川は不審に思いながら呼び鈴を鳴らします。

しばらくして、正悟は玄関からすこしだけ顔をのぞかせると、「すまないが今日はちょっとタイミングが悪くてな。また今度にしてくれないか?」そういって引き戸を閉めようとしました。

「えーっ! だってプロレス始まっちゃうよ。誰か来ているのか?」

そういって瀬川が玄関のなかを覗き見ると、正悟の靴があるだけです。誰か来ている様子はありません。

「そ、そうじゃないんだ......」

「だったらなんでだよ?」

「......」

言葉に詰まった正悟を尻目に、瀬川は無理やり引き戸をこじ開けると、正悟の制止を振り払って、家のなかにズカズカと上がり込んでしまいました。

そして、居間で振り返ったさつきを見て、瀬川は固まります。

ふたりが勤めている工場には、女子社員といえば既婚者で年配の事務員のふたりだけしかいません。

なにしろ田舎町なので、学生以外の若い女性たちは、ほとんどが就職や大学進学やらで都市部へ出ていたので、出会う機会はおろか、話をすることもあまりありませんでした。
そういうわけで、元来恥ずかしがり屋の正悟も瀬川も、若い女性にはまったく免疫がありませんでした。

「こ......今晩は」

そんな瀬川が、やっとの思いで捻り出したことばがこれだったのです。

「今晩は」

さつきは瀬川に頭を下げて、静かにことばを返します。

「おい、正悟。おまえいったい、いつ彼女できたんだよ? つれないなあ。教えてくれてもいいのによ......」

正悟を振り返った瀬川は、膨れっ面です。
瀬川は正悟より三歳年下ですが、いつもタメ口でした。

「瀬川、そうじゃないんだ。彼女は違うんだよ」

「嘘ばっかりいうなよ。彼女じゃなけりゃ、なんでおまえの服を着てるんだよ? そんなのおかしいだろ?」

瀬川はかねてから正悟に、いずれ俺は小説家になるんだ、と話していました。そんな瀬川でしたので、想像力は逞しく、なんでもかんでも知りたがるのでした。

正悟は瀬川のその性格をよく知っていたので、正直にさつきのことを知っている範囲で伝えました。

「彼女、さつきさんは、おじいさんと母親から監禁されていたってことだよな。それで彼女はそこから逃げ出した。そして、山本さんがそのことについて調べてくれている。そういうことだな」

正悟の話をひととおり聞き終えた瀬川は、確かめるようにいいました。

瀬川はこのことを面白がっているのか、そういいながら瞳を輝かせています。

なにしろこんな小さな町です。小説のネタになりそうな話は、現実問題としてそうそう転がっているわけではありません。

「ああ、そういうことだ。山本さんから彼女をここに一晩泊めてくれといわれたんだ」

「わかった。俺はこれで帰るから、なにか必要なものがあれば遠慮なくいってくれ。俺はお口にチャックで、このことは誰にもいわないから」

そういって瀬川は、目当てのプロレス中継を見ることなく帰っていきました。

その夜、正悟はさつきから、彼女の身に起きた数々の不幸な出来事を聞かされました。

さつきの母は、戦争で夫が亡くなった後、夫がもともとこの地の生まれではなく遠方の出身だったため、父の吉次を頼らざるを得なかったのです。

その当時は、日本に住んでいる誰しもが日々食べるだけで精一杯、顔も良く知らない遠くに住む親戚を助ける余裕などまったくなかったのです。

さつきの祖父の吉次は、戦争の最中、肺結核で妻を亡くしました。
子だくさんの当時としては珍しく、吉次の子は戦死した息子一人と娘の早苗の二人でした。
さつきを連れて吉次の家に戻ってきた早苗とふたりで、家業の農業を細々とやっていましたが、やっと暮らしていける程度の収入しかありませんでした。

さつきは中学を卒業すると、担任の先生の紹介で、東京近隣の町工場に住み込みで就職することになりました。

その工場で働いていたさつきは、寮暮らしのなかであるときから突然始まった、恋愛がらみの嫉妬によるイジメが原因で、五年ほど働いたその工場を退職することになりました。

故郷に帰ってきてしばらく経ってから、さつきの奇妙な言動が始まりました。

しかし、世間体を異常に気にする祖父の吉次は、さつきを精神病院に診察を受けに行かせることもしなかったのです。
なにしろ狭い田舎町です。
精神病院に入院しなくても、受診した、そのことだけでさつきに嫁入りの縁談話はまったく来なくなってしまう。吉次はそう考えたのです。

吉次は親戚の勧めに従って、やれ狐憑きじゃないか、と怪しげな祈祷師にお祓いをしてもらったりしました。

それでもさつきの様子は変わることなく、相変わらず奇妙な言動は続いていたのです。

困り果てた吉次は、さつきを自宅の一室に閉じ込めました。

俗にいう私宅監置です。

しかし、過去には警察に届け出をすれば合法的だったこの制度も、禁止されてからもうすでに二十年近く経っていました。

それでも、世間体を気にする多くの人々は、身内のことは身内で解決する、とそのような手段を用いていたのです。

第二次世界大戦後、もう四半世紀ほど経っていましたが、いまだにこういうことがあるのだな、と、近代日本ということばが実しやかに叫ばれている昨今、前近代的なことが、堂々と行われていることに、正悟は驚きと同時に憤りを感じ得ずにはいられませんでした。

正悟は祖母が逝った後長らく一人暮らしということもあって、話し相手ができた嬉しさに、瀬川にはなかなか話せない自分のことも、さつきを相手にいろいろ話しました。

そうして、夜が明け、朝が来ました。
ふたりは話し込んだまま、居間の炬燵に頭をうつ伏せて、深い眠りに落ちていました。



玄関の呼び鈴でふたりは目を覚ましました。

石油ストーブの火はいつのまにか消えていました。正吾はブルっと寒さを感じ、からだを震わせます。

玄関を開けると、山本でした。

「正悟、昨夜は大丈夫だったか? 彼女はどうしている?」

「朝方まで話を聞いていたら、俺も彼女もいつの間にか寝ていたみたいで、たったいま起きたところです」

「そうか。警察の同僚に訊いてみたんだが、行方不明の届け出はいまのところはまだ出ていない」

「そうなんですね」

「それで、今日は俺は非番だから、いまから彼女の家に行ってみようと思う。ちょっと上がっていいか?」

山本は、なかなか自分の住所を教えようとしないさつきに、今日もここにいていいから、と安心させて、なんとか家の住所を訊きだしました。



正悟の家から自転車で三十分ほどかけて、蔵内さつきの家にたどり着いた山本は、玄関の呼び鈴を鳴らします。

「どちら様ですか?」

しばらくしてから、鍵がかかった玄関のなかから声がしました。

「蔵内さつきさんのことでお話があるんですが」

山本が自分は警官で、さつきを保護していると告げると、玄関が開き、なかから中年の女性が出てきました。

さつきの母親の早苗です。顔には殴られたような痕がありました。

「誰だ、誰が来たんだ?」

山本が早苗に話しかけようとしたとき、なかから大声がしました。
杖をついて出てきたこの大柄の老人が、さつきの祖父の吉次でした。

早苗を押しのけるようにして、山本のまえに進みでます。
山本よりもかなり上背がありました。

「それで、あんたはどちらさまで?」

「私は山本といいます。警官です。実はですね、さつきさんを昨夜から保護しているんです」

「ほ、本当ですか? さつきが突然いなくなって探していたんです。これからすぐに迎えに行きますから。いまどこにいるんです?」 

「それがですね。さつきさんご本人が、こちらに帰りたくないといっているんですよ。それで、いったいどういうことか、ご事情をお伺いしたくて来ました」

「わしの孫のことです。わしがさつきを引き受けるといっているのに、なんの問題があるっていうんだ」

吉次は大声を出して、山本に詰め寄りま
した。

「......ですから、いったいどういうことなのか、状況を確認しないとですね。教えられないのですよ。暴力とか、不当に監禁されていたのではないか、と危惧しているわけですよ」

そうした押し問答がしばらく続いたあと、山本は強い口調で奥の手を出しました。

「蔵内さん。ご存知だとは思いますが、私宅監置は禁止されています。もし、さつきさんが自宅に監禁されていたとしたら、あなたは監禁罪に問われることになる」

「いや......それは......」

「さつきさんの気持ちが落ち着いて、ご自分から帰りたい、といい出されたときにはお迎えをお願いします」

山本は押し切るようにそういって、その場をあとにしました。



それからさつきは正悟の家で暮らすようになりました。正悟の家には幸いにも部屋がもうふたつありましたので、さつきはそのひとつに住むことになりました。
正悟にもさつきにも、このまま離れがたい、なにかしらの想いみたいなものが芽生え始めていました。

山本はさつきの母の早苗に、週に一度、さつきの様子を見に行った後、電話で連絡を入れていました。

「さつきはどうしていますか? ご迷惑をかけていませんか?」

「なにも心配ありません。最近は娘さんの笑顔を見ることも多くなりましたよ」

さつきのことを気遣う早苗に、山本はそういって、安心するように伝えていました。

時折、山本からの電話だと気づいた吉次が、早苗から受話器を奪い取って、

「さつきは、どこにいるんだ? 教えてくれ」

そう詰め寄ることもありましたが、山本は、「娘さんがご自分から家に帰るといい出すまでは教えられない」と突っぱねていました。



瀬川は毎週金曜日の夜になると、プロレス中継を目当てに、相変わらず正悟の家を訪れていました。

以前と違うのは、玄関には鍵がかかっていることでした。

まえと同じように、ビールとおつまみだけを持ってお邪魔するのに気が引けた瀬川は、三人で食事をしようとある日突然いい出しました。
まだまだ、寒い日が続いています。

「やっぱり鍋だろう」

瀬川はそういって、すき焼き用の肉やら、鍋用の魚介類やら、白菜とかの野菜類やらを手にして、夜七時前には正悟の家に来ていました。

三人で鍋を突つきながら、プロレス観戦です。

瀬川は興奮してくると、「いまだ。やれっ!」などと、大声を上げながら手にした箸を振り回します。

正悟も箸を持った手を止めて、食い入るように黙ってテレビに見入っています。

そんなふたりを見ていたさつきは、あの工場の寮で相部屋だった仲のよかった女友だちのことを思い出していました。

明るく話し好きなその友だちは、瀬川によく似ていました。そして、物静かな正悟は自分に。

いま思い返してみると、さつきは彼女の気持ちが痛いほどよくわかりました。

彼女が思いを寄せていた工場の営業マンからさつきがデートに誘われたことが発端でした。
彼女が彼にそんな思いを抱いていたと知らされていなかったさつきは、「彼からデートに誘われたんだけど、どうしよう?」と彼女に相談したのでした。

「そんなのダメに決まっているでしょう。職場恋愛なんて」

彼女はそういって、さつきに断るようにすすめました。

しかし、何度もしつこくいい寄ってくるその男性に困り果ててしまったさつきは、工場長にそのことを相談しました。

すると、その男性は、自分で辞めたのか、それとも辞めさせられたのかはわかりませんでしたが、いつのまにか会社を辞めていました。

その友だちは、ひとことふたこと、たまにその男性と会ったときに会話を交わすだけで幸せな気分でいられたのに、さつきのせいで、それももう叶いません。

「あんたのせいで、あの人は辞めさせられたんだ」

わけもわからず戸惑うさつきに彼女はそういい放ちました。
さつきはそのとき初めて、彼女が彼を好きだったことを知ったのです。

ある休みの日、さつきが外で買い物をして寮に戻ってくると、彼女の姿は部屋にはありませんでした。さつきは寮長から別の新人りが同室になると告げられました。

それから彼女のさつきに対する嫌がらせが始まりました。「あの子は、男に色目を使う」とか、「あの子、あたしにあなたのことこういってたわよ」などと、根も葉もないことをいいふらされました。
その結果、さつきはみんなから総スカンを食らってしまったのです。

それが原因でさつきは心を病んでしまいました。心から信頼していた友だちのそれらのひどい仕打ちは、それほどさつきを打ちのめしたのです。

さつきにとって、正悟とのふたりきりの暮らしは、本当に久しぶりにこころから安らぎを覚えるものでした。

大晦日には正悟、さつき、瀬川の三人で年越しそばを食べ、年末恒例の歌番組を見て、テレビから流れる日本全国の除夜の鐘を聞きながら年を越しました。

「明けましておめでとう! 今年もよろしく」と瀬川はふたりに新年の挨拶をすると帰っていきました。

瀬川が帰った後、正悟とさつきのふたりは、「それで、おまえらいつ結婚するの?」と、歌番組を見ながら瀬川が何気なくつぶやいた言葉を思い出していました。

その言葉がふたりの背中を押したのでしょう。その夜ふたりはどちらともなくお互いを求め、初めて結ばれました。

さつきは正悟が仕事に行ったあと、炊事、洗濯、掃除とすませ、正悟が帰って来るまでに夕食を準備して大人しく待っていました。

なにしろ狭い町です。誰がどこでさつきを目にするかわかりません。
さつきは極力外出を控えていました。

正悟は、さつきの祖父の吉次と母親の早苗に会って、ふたりのことを認めてもらいたい、と幾度となくさつきに話していました。

しかし、さつきは、家に閉じ込められていたときのあの辛い日々を思い出すだけで、いまだにからだが震えるのです。
できるものならあの家に近づきたくなかったのです。

それに、あの吉次の気性です。自分が正悟とすでに男女の仲になっていると知ってしまったら、と思うと、怖くて二の足を踏むさつきでした。

そんなある日、「ずっと家のなかにいたら気も滅入るでしょう」そう正悟に誘われて、さつきは正悟がよく行くという河原まで魚釣りに出かけることにしました。

さつきと一緒に暮らし始めて、しばらく釣りからは遠ざかっていた正悟でした。

冬のこの時期は、よほどの釣り好きでなければ、大して大物が釣れるわけでもない川釣りのその場所に来る釣り人はほとんどいません。

正悟たちが川鉄橋下の魚釣りのポイントに着くと、先客がいました。

その少年は正悟と顔見知りでした。

「こんにちは」

「こんにちは。釣れてる?」

少年と正悟はお互いに軽くあいさつをします。

「こんにちは」

「こんにちは。?......さつきお姉ちゃん!」

さつきのあいさつに、深く被っていた帽子をとって、おじぎをした少年はそう口にしていました。

「あっ! 昭人くん」

「さつきさん、昭人くんを知ってるの?」

「親戚の子なの」

「さつきお姉ちゃん、どうしてこんなところに? 正悟さんと一緒に? じいちゃんが吉次さんからお姉ちゃんのこと知らないかって訊かれていたけど」

「昭人くん。ここでさつきさんと会ったってことは誰にもいわないでくれないか?」

これはまずいと思った正悟は、優しくお願いするようにいいました。

「えっ! どうして?」

「お願い昭人くん。おじいちゃんには黙ってて」

「......わかったよ」

すこし考え込んだあと、少年はそういって、魚釣りの道具を片付けると、そそくさと帰っていきました。

プロレス観戦以外の正悟の唯一といえる趣味は、休みの日に列車の通る川鉄橋下で魚釣りをすることくらいでした。

瀬川は時折そこに行っては、正悟と一緒に過ごすこともありましたが、瀬川はいつも正悟の傍らで持参した小説を読むばかりで、終ぞ魚釣りをすることは一度もありませんでした。

そんな瀬川を、そこでよく魚釣りをしている近所に住む少年が、「おじさん、いったいなにをしに来てるの?」と会うたびに不審がっていました。

その少年が、さつきの親戚だったことに正悟は驚きました。

正悟もさつきも、もう魚釣りどころではありません。ふたりは無言で足早に家に帰りました。



「さつき、さつきはいるか?」

正悟とさつきが昭人に会ってから数時間後、吉次は正悟の家に来ていました。
大声で叫びながら玄関に押し入ろうとしています。
昭人がさつきと会ったことを、弟の源三から聞いた吉次は、昭人から聞いた平原正悟という名前をもとに、正悟の家を探し出していたのでした。

「蔵内さん、なにをしてるんです。やめてください、そんな乱暴は」

正悟の家にいつものようにさつきの様子を見にやって来た山本が、吉次の背中から声をかけます。

「あんたか。さつきはここにいるんだろう?」

山本は吉次を制止しようとしますが、大柄な吉次は、杖をついて脚を引きずりながらも、山本を玄関に押し倒すと、靴のままズカズカと家に上がり込んでしまいました。
山本は三和土にしたたか頭を打ちつけて、気を失ってしまいました。

「さつき、さつき帰るぞ」

吉次は大声で叫びながら奥へ入っていきます。

「おお、ここにいたんだな」

さつきは正悟のからだにしがみついて震えています。吉次はさつきの腕を正悟から引き剥がすように思いっきり引っ張ります。

「やめて、やめて。おじいちゃん、やめてよ」

泣き叫ぶさつきの声を無視して、吉次はさらに力を込めて、さつきの腕を引っ張りました。

「やめてください」

正悟はそれを止めに入ります。

正悟と吉次はもみあいになり、台所の方まで傾れ込みました。

吉次は、ふたりが流し台にぶつかった拍子に転がり落ちた包丁を掴み、そしてその切先を正悟に向けました。

「さつき。おまえがわしと一緒に家に帰らないのなら、こいつを刺す」

吉次は正気を失っています。

この二ヶ月というもの、さつきを探し続けていた吉次でした。しかし、山本にいわれた、監禁罪に問われるということばが、吉次に公の手段に訴える気を失わせていました。

そして、とうとう居場所を突き止めたのです。

吉次は昭人から、ふたりは恋人同士みたいだった、と聞かされていました。
吉次の胸の内には、孫のさつきが、わけのわからない男に傷ものにされた、そういう思いがありました。

吉次の視線がさつきに向けられたその一瞬の隙をついて、正悟は包丁を構えていた吉次の右手に掴みかかり、包丁を振り払おうとして、またふたりはもみあいになりました。

「うっ!」という鈍い声と共に、動きを止めた吉次の異変に気づいた正悟は、咄嗟に後ろに飛び退きます。

正悟の目のまえには、包丁が刺さった自分の腹を見つめる吉次の姿がありました。
包丁の柄からは、床に血が滴り落ちています。

それを見た正悟は平静を失いました。

そこに、やっと目を覚ましてやってきた山本は、いったいなにが起こった? と必死に状況を把握しようとしています。

床に転がってうめく吉次。

山本が正悟たちの方に再び視線を向けたとき、そこにはもう正悟とさつきの姿はありませんでした。



正悟とさつきは家をあとにすると、正悟がよく釣りをする川鉄橋の下にいました。

正悟が人目を避けられるところをよく知っている場所です。

正悟の頭には、血を流してうめいている吉次の姿が、何度も何度も映画のコマ送りのようによみがえってきます。

大きなからだを丸めて縮こまって震えている正悟の背中に腕を回して、さつきは優しく話しかけます。

「大丈夫よ。きっと、大丈夫だって。おじいちゃん大丈夫だと思う」

「血が溢れ出ていた。あれじゃあ、きっと助からないよ......」

「今頃、救急車で運ばれてると思うから。山本さんもいたし......」

ジャンパーなども羽織らず、かなりの薄着で家を飛び出した正悟とさつきは、冬の寒空の下、震えながら寄り添うように隠れていました。

あたりが暗くなっても、まだふたりはそこにいました。

正悟とさつきの目のまえが突然明るくなり、そして声がしました。

「正悟、俺だ」

山本でした。手にしたサーチライトをふたりに向けています。

「さつきのおじいさんは大丈夫ですか? 山本さん」

「正悟なにがあった? おまえが吉次さんを刺したのか?」

「わかりません。揉み合っていて、それでいつのまにか包丁が吉次さんのお腹に刺さっていて......」

「吉次さんは救急車で病院に運ばれた。意識はあるみたいだから、命に関わることはないと思う。まだ、わからんが」

「山本さん、俺......犯罪者になっちゃうのかな......」

「正悟とりあえず落ち着け」

サーチライトの光に、眩しそうに目を細めている正悟に気づいた山本は、ライトを川面に逸らしました。

正悟はいつもの正悟ではありませんでした。
山本はそう思いました。
いつもの優しい落ち着いた口調の正悟ではありませんでした。
口にすることばは忙しなく、なにかに追い立てられているようでした。

「もう、終わりだ。俺の人生終わりだ」

正悟は叫びました。

「ごめんなさい、わたしのために。わたしのせいで、こんなことに......」

さつきは涙をポロポロ溢しています。

ふたりのまえには、満々と水を湛える、この町を東西に隔てる川が、暗く静まり返っています。

「正悟。話を聞いてくれ」

正悟は山本を見て、一瞬なにかをいいかけましたが、すぐにその顔をさつきに向けました。
そして、ふたりはにっこりと微笑み、うなずき合って、手と手をしっかり携えると、川に飛び込みました。

ざっ。音を立てて一瞬水飛沫が上がります。

銀色に垂れ込めた厚い雲の下、純白の雪は時間をかけて舞い降りてきます。
真冬の暗闇のなか、揺蕩う川面に運悪くたどり着いてしまった牡丹雪たちは、すぐにその大きな流れに飲み込まれ、あとには何事もなかったかのように流れ続ける黒い川だけがそこにありました。



今日がその日なのです。

瀬川は、ふたりが川に飛び込んだこの日に、この小説を大事にしまってある引き出しから取り出し、なぜ正悟たちがあんなことになってしまったのか、ひとり思いをめぐらせるのです。

「瀬川先生、いらっしゃいますか?」

瀬川がそんな想い出に浸っていると、玄関先で声がしました。お淑やかな女性の声です。

瀬川は手にしていた原稿を机の上に静かに置き、急いで玄関に向かいます。

「フーミン、久しぶりだな」
「ご無沙汰しています。瀬川さん」

七年ぶりに会う、正悟とさつきの笑顔がそこにありました。

実は、ふたりが飛び込んだ、あの川鉄橋付近の水深は五メートル以上とかなり深いのですが、ふたりはその先五百メートルほど下った、地元では鶴の河原と呼ばれる一帯のなかの浅瀬の一角に、運良く流れ着いたのです。

普通なら、川の流れそのままに、川下に流されていてもおかしくはありませんでしたが、不思議なことに、ふたりはそこに引っ掛かるようにたどり着いたのでした。

吉次のケガも大したことはなく、「孫を連れ戻しに来て、それを止めた正悟と揉み合いになり、流し台にぶつかって、そこに手をついた拍子に思わず掴んだ包丁で、自分で自分を刺してしまった」といい張りました。

包丁を手にして、その切先を正悟に向けたのは、他ならぬ吉次でした。

包丁から取られた指紋の照合も行われました。

正悟が普段から使っている包丁です。もちろん正悟の指紋は検出されました。しかし、そのどれもが、吉次の指紋に隠れるようなものでした。
つまり、正悟が吉次から包丁を奪い取って刺したとは考えられませんでした。

正悟が包丁を握りしめていた吉次の手を吉次の腹に向けたのではないか、とも考えられましたが、その瞬間をその場にいたさつきも、遅れて入ってきた山本も見ていません。
正悟もそのときのことは、はっきり覚えていませんでした。

吉次が正悟に包丁を突きつけたことは、示し合わせたわけでもないのに、正悟もさつきも黙っていました。
吉次が罪に問われることをふたりとも恐れたからでした。

なにより、当の吉次が自分でやったといっているのです。それ以上の追求はされませんでした。
この件は事故で片付けられました。誰も何の罪にも問われませんでした。

さつきと正悟が川に身を投げた、と聞かされた吉次は、自分が無理やりさつきを家に連れ戻そうとしたせいだ、と深く反省していました。

なぜふたりが川に身を投げのか、を疑問視する声も上がりましたが、吉次の激しい性格をよく知っていた何人かの警官たちは、「あの口うるさいじいさんだから、おおかた孫可愛さのあまり、自分が認めた男としか結婚させない、とふたりが付き合うことを断固反対したんだろう。それでふたりはああいうことになってしまったんだ」と、過去に何度も喧嘩騒ぎで警察に厄介になっていた吉次が相手だけに、そういうことだろう、と解釈しました。

この後、病院で診察を受けたさつきの病状が、急性の一過性の精神障害で、その兆候はもう見られないと診断されました。
そして、真剣に交際を始めたふたりは、すぐに結婚を決めました。

身内だけのささやかな結婚式でした。
そこには、吉次の弟の源三と、源三の孫の昭人もいました。

瀬川がこの小説を発表しなかった理由のひとつはこれでした。ハッピーエンドで、めでたしめでたしなのですが、瀬川のなかでは、物語的にしっくりこなかったのです。

物語の結末を悲しいものに変えてしまえば、そんなふたりの門出に水を差すことになる、そう考えたからでもありました。

「フーミン。これ、つまらんもんだが」

正悟が手渡したのは、地元のお酒でした。瀬川はこれに目がないのです。

「正悟。もういい加減、フーミンと呼ぶのはやめてくれ。もともとは俺がしつこくそう呼んでくれといったことなんだが。なんか、恥ずかしい。瀬川と呼んでくれないか?」

瀬川が新人の文学賞を獲って小説家としてデビューし、東京に移り住んだときから、正悟は瀬川のことをこう呼んでいました。

正悟は、瀬川と呼び捨てにするのに躊躇い、かといっていまさら、瀬川さん、瀬川先生と呼ぶのも変だ。それで、かねてからこう呼んでくれ、と瀬川からいわれていた、フーミンというあだ名で呼ぶことにしたのです。

「わかったよ、瀬川」

瀬川は優しい微笑みを浮かべているさつきに目を向けます。

瀬川の脳裏に、三人で鍋を突つきながらプロレス観戦をした思い出がよみがえります。
そして、三人で年を越したあの日のことも。

そのさつきの手をしっかり握りしめて、恥ずかしそうに、今年五歳になったばかりのふたりの一人娘の結衣ちゃんが、さつきの後ろから顔だけのぞかせています。

正悟とさつきに「ちゃんとごあいさつをしなさい」とうながされて、「こんにちは」と結衣ちゃんは、はにかみながら瀬川にあいさつをします。

人のこころを優しくさせる、天使のような可愛らしい笑顔でした。

〈了〉



約14000字のこの物語、最後までお読みいただきありがとうございました。


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鯱寿典
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