『サザンクロス ラプソディー』vol.36
レスター・スクウェアの地下鉄駅を出て映画館のほうへ進むと、ロープを張られた道の両側に人だかりができていた。
近くにいた人に「いったいなにが始まるんですか?」と訊いてみると、「いまから英国の皇太子と皇太子妃がやってくるんだ」という。
だったら、俺も一度くらいはおふたりのお顔を拝見してみたい。
俺のまえでは父親に連れられた八歳くらいの可愛らしい女の子が、おふたりがやってこられるのを今か今かと待ち構えていた。
そして、英国のスパイ映画シリーズの初代俳優として有名な男優が、皇太子ご夫妻をエスコートして現れた。
遠くから皇太子ご夫妻のお姿がゆっくりと近づいてくる。そして、俺のまえの女の子に、皇太子妃が足を止めて話しかけられた。
女の子は突然のことで、一度父親を振り返り驚いた表情を見せていたが、その声はうれしさで弾んでいた。
それはそうだろう。
大勢の群衆のなかで彼女だけが皇太子妃に話しかけられたのだから。
その少女のすぐ後ろに立っていた俺は、失礼なこととは思いながらも、皇太子妃のお顔を遠慮することなくまじまじと見つめた。
いまでも皇太子妃の、その少女に向けられた人を包み込むようなあたたかい笑顔が忘れられない。
ほんとうに美しいひとだった。
*
朝早くに電話があった。
俺がちょうど朝食をつくり終えて、さあ食べようとしたときだった。一瞬、俺が電話を取ってもいいものかどうか迷ったが、ハウスシェアをしているんだし別にいいだろう、と八回目のベルで受話器を取る。
「おはようございます」
「おはようございます。私、マユです。ヤマはまだいますか?」
マユからだった。もちろん、英語だ。
どういうわけか、英語を話しているマユのほうが親しみが持てる。日本語で話すマユと俺との間には、なにかしら壁みたいなものがいまだに存在していた。
「あ、マユ。おはよう、ヤマです」
「ヤマさん、おはよう。今夜の予定はもう決まってる?」
「夜は特にはこれといって決めてないけど」
「もしよかったら、映画を一緒に観にかない? このまえご馳走になったから、そのお返しもしたいし」
「いや、そんな......お返しなんていいけど、映画は観に行きたいな」
「よかった。じゃあ、夕方の六時頃に事務所のあるビルの入り口で待っててもらえる?」
「うん、わかったよ」
電話を切ったあとで、俺は考え込んでいた。というのも、マユと最後に別れたときは、もう二度と会うこともないだろう、と俺は思って、そのあとマユに連絡することもなかったからだ。
彼女のほうからデートのお誘いがあったことに、俺はすこし驚いていた。そんなことを考えていたら、なんの映画を観に行くのか聞いていなかったことに気がついた。
まあ、どんな映画でもかまわないや、マユとデートなんだから。
女性から誘われるとほんとうにうれしい。ワクワク、ドキドキ、というやつだ。
約束の時間にマユは待っていた。
俺としたことが、待ち合わせに遅れることなどほとんどないのに、このときは電車が大幅に遅れたせいで五分ほど遅刻してしまった。
「ごめんなさい、マユ。お待たせしてしまって」
「気にしないで、私もたったいま出てきたところだから」
「そう、よかった」
俺はマユにうながされて映画館のほうへ歩き出す。
「ところでなんの映画を観るの?」
「 『The Hunt For Red October』って映画だけど、知ってる?」
「あ......知ってる」
このまえ、皇太子ご夫妻がその映画の主演俳優にエスコートされて観覧された映画だった。
マユは、「ここは私に払わせて」といっていたが、俺は頑なにそれを断った。
女の子との、特に日本人の女性とのデートでは、男がもてなすのは俺にとってはあたりまえのことだった。
チケットを購入するときに俺は驚いた。全席指定だったからだ。おまけに、席によって料金に差があった。
あとからマユに教えてもらったところによると、席だけでなく、映画館、曜日、時間帯によっても料金が違っている、ということだった。
この当時は、日本でもオーストラリアでも、サービスデーを除けばチケットは一律料金で、空いている席に早い者勝ちで座っていたから、新鮮な驚きがあった。
たしかに、週末は混むし、スクリーンの中央に近いほうが観やすいし音響もいいような気がする。それらが割高になるのはあたりまえのことのように感じた。
ただ、このときは、ほぼ満席だったため、スクリーンの一番まえの席しか空いていなかった。マユに「ここでもいいの?」と訊くと、「どこでもいいよ」との返事だったので、そこにした。
映画が始まって五分ほど経ったころ、俺は後ろから席を蹴られて、話しかけられた。
「なんだよ」
そういいながら振り返ってみると、後ろの席には十代の少年、少女たち三人が並んで座っていた。
「頭を低くしてくれない? 見えないんだよ」
不愉快そうに、手で『頭を下げて!』みたいなジェスチャーをしている。
「あっ、ごめん」
俺はシートに深く腰を沈める。
「これで大丈夫か?」
俺の問いかけにその少年は、『もっと』というようなジェスチャーをしている。俺は内心、馬鹿にしてんのか、と思ったが、相手は少年だ。
仕方がないな、と思いながら、脚をほぼ真っ直ぐ投げ出す形で、限界までシートに腰を沈める。
こうなると後ろを振り返ることもできない。もう、少年に確認もしなかった。
イブと付き合っていた頃の記憶がよみがえった。
彼女とふたり、電車、バスなどで座席に座ると、必ず俺のほうが頭ひとつ分高くなる。
イブと俺はほぼ同じ身長だったから、つまり、俺のほうがイブより座高が高く、脚が短いというわけだ。
映画のあと近くのカフェに入る。
「ヤマさん、あのね、私、一度日本へ帰ることにしたの」
映画の感想をお互いにいい合いながら、ケーキを一気に食べ終えたマユは、カプチーノをひとくち飲むと唐突にこういい出した。
マユがカフェに行きたいというからここに入ったが、『レストランに入るべきだったな』とマユのケーキの食べっぷりをみて、俺はすこし後悔していた。
「えっ! まえに話したときは、日本に見切りをつけてこちらに住みたいんだっていってなかったっけ?」
俺はなぜマユが突然そんなことをいい出したのかわけがわからなかった。
「そうだったんだけど......実はね、私、日本で付き合っていたひとがいたの。その彼とはいろいろ話し合って、ちゃんとお別れをしてここに来たのよ。私、遠距離恋愛なんて、とてもできそうになかったから」
「そうなんだ......」
付き合っていた彼と別れてまで、ここに来ることにしたとは、すごい行動力だ。ま、マユなら驚かないが。
「けど、ヤマさんとお出かけして、彼のことが懐かしくなったの」
「え......どういうこと?」
「彼って、ヤマさんみたいに女性の扱いに慣れてなくって、不器用で、私たち喧嘩することもしょっちゅうだったのね」
「ま、仲がいいほど喧嘩するっていうからね」
マユは理路整然とした話し方をする。そんなマユと口喧嘩なんかしようものなら、俺だったらやり込められるのは間違いないだろう。もっとも、俺は女性と喧嘩なんか絶対にしない主義だが。
「けど、そんな彼のことが本当に好きだったんだ、と思い出したの。そう思ったら、急に彼の声が聞きたくなって、ロンドンに来てから初めて彼に電話をかけたの」
「彼は驚いたんじゃない?」
もしかしたら俺はいまから惚気話を聞かされるんだろうか? なんて思いながら、カプチーノをひとくち啜る。ちょっと甘くてほろ苦い。
「ええ。私のほうから押し切るように別れて、それっきりだったから。もしかしたら、冷たく電話を切られるかも、なんてことも考えたの。けど、彼は『逢いたいよ、逢いたいよ、マユ』っていってくれたの」
そういって、マユはうれしそうに微笑んだ。あぁ......やっぱり惚気話だ。
「ということは、彼に会いに日本へ帰るってことなんだね」
「そうなの......」
「ということは、もうここには戻ってこないってこと?」
「私、このロンドンに住み続けたいっていう気持ちはいまも変わらないの。だから、できれば彼と一緒にここで暮らしたいって思ってる」
「うーん、どうだろう。俺がこんなことをいうべきじゃないんだろうけど。彼が日本を離れてイギリスに住むっていうのは、かなりハードルが高いんじゃない? ビザの問題もあるだろうし」
「それは、そうだろうけど。私もここに住んでみて、ロンドンの暮らし、その素晴らしさを、いまは自分の言葉で彼に伝えられると思うから、なんとか彼を説得して、ふたりでここで生きていければって思ってるの」
「そんな風に上手くいくかな......」
「こんなこといったら嫌味な女だと思われるかもしれないけど。私と彼は幼馴染で、幼い頃から付き合いは長いの。だから、きっと大丈夫だって信じてる。私、人生を共に歩むとしたら、やっぱり彼しかいないから」
「そこまで決めてるんだ。だったら、マユがその彼と上手くいくことを祈ってるよ」
「ありがとう、ヤマさん」
そういって、マユは眩しいほどの笑顔を見せた。マユの尻に敷かれっぱなしの彼の姿が目に浮かぶ。
マユは来月いっぱいでいまの事務所を辞めて日本へ帰ることにしたという。
今日、俺といっしょに映画を観に行こうとマユが思い立ったのは、俺がきっかけでマユがそうすることを決めたことをどうしても伝えたかったらしい。
ただ、その話をするためだけに俺を呼び出すのも気が引けたらしく、要するに映画はそのついでにというわけだった。
けど、俺としては、そんなことを伝えられてもね......なんか複雑。
なんにしても、ひとりの女性のお役に立てたのならうれしいことだ。
俺はいま住んでいる家を見つけてくれたことに対する感謝と、日本にいるその彼とお幸せにとのことばを伝え、地下鉄の入り口でマユと別れた。
*
ロンドンから電車で約ニ時間半ほど揺られて、ストラトフォード・アポン・エイヴォンにやってきた。
ここはシェイクスピアの生誕地として世界的に有名なところだ。
文学に興味があるひとならば、一度は訪れてみたいと思う場所だろう。
シェイクスピアといえば、俺のなかでは『ロミオとジュリエット』だ。
1968年制作の同名映画のなかで、あの主演女優はほんとうに光り輝いていた。
幼くて、かわいくて、一途で、好きという気持ちをスクリーンのなかでストレートにぶつけていた、あの美しさはいまでもこの目に焼き付いている。
その彼女が、日本人歌手と結婚した、と聞いたときには驚きのあまり言葉が出てこなかった。
俺がストラトフォード・アポン・エイヴォンを訪れてから十年ほど後に、イタリアのヴェローナに仕事で行ったことがある。
そのとき、シェイクスピアの戯曲のモデルになったといわれる石造りのバルコニーがある通称『ジュリエットの家』に立ち寄った。
バルコニーの下にある『ジュリエット像』には、その右胸に触れると幸せになれる、といういい伝えがあって、幸運と恋愛成就を願って男女問わず大勢のひとたちが触りまくるものだから、右胸だけが眩いばかりに光り輝いていた。
ジュリエットって、バルコニーからロミオに話しかけていたんじゃなかっったっけ。
なんで、バルコニーの下にいるんだろう? なんて、どうでもいいことを考えてしまった。
ストラトフォード・アポン・エイヴォンは小さな田舎町だ。その中央に位置する通りにシェイクスピアの生家がある。
シェイクスピアが青年期まで過ごした家を見学した。
家のなかには当時のままの家財などが残されていて、シェイクスピアがどのような暮らしを送ったのかを垣間見ることができた。
ロンドンの演劇界で富と名声を手にしたシェイクスピアは、晩年、生まれ故郷に帰った。そして、シェイクスピアは奇しくも誕生日と同じ日に感染症により死去したといわれている。
誕生日と同じ日や、その前後に亡くなったという話を耳にすることは意外と多い。
俺の母も誕生日の一日前に、まるで急かされるように突然旅立った。
母は亡くなる当日の朝まで元気に花壇の世話などをしていたのに、昼食を食べたあと急に具合が悪くなり、病院で診てもらうとO157に感染していた。そして、そのまま入院することになった。
担当医師からの説明では、「症状は軽いので一週間ほどで退院できます」とのことだった。
O157の死亡率の低さから、俺は医師のその言葉に安心しきっていた。
しかし、その夜、容体が急変したという知らせを俺が受けたわずか二時間後に母はそのまま息を引き取った。
ひとの死というものはいつなんどき訪れるのかまったくわからない。
金持ちであろうとなかろうと、有名であろうとなかろうと、それは例外なく誰にでも訪れる。
ひとは生まれ落ちた瞬間から死に向かって生きていく。
いろいろな場所へ行き、いろいろなものを見聞きし、いろいろなひとたちと出会う。
そのときどきで、笑ったり、泣いたり、励まされたり、落ち込んだりしながら生きていく。
いつの日か最後の瞬間が訪れるとき、俺はなにを感じ、そして、なにを思うのだろう。
できれば、『悪くない人生だったな』となにも思い残すことなく旅立てればいいな、なんて思ったりする。
〈続く〉
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ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
物語は続きますが、不定期更新なので、次はいつになるのか今のところ未定です。ご了承下さい。
尚、全く内容の違った作品も間に投稿する予定です。これについても、予めご了承下さい。
今回のこの作品は、1990年頃の物語という設定ですが、実在する人物、店舗、団体、地名などとは一切関係ありません。