「介護時間」の光景③ バス停
19年前の今日(4月9日)、見た光景がありました。
その頃、私は病院に通い続けていました。
母に入院してもらったのは、その前年の2000年の夏でした。クルマで、やっとの思いで連れていき、帰りにやたらと大きく赤く、熟しすぎて崩れそうな果物のような夕日をみて、誰にも言われていないのに「親をすてた」という言葉が頭の中に浮かんでいました。
それから1年くらいたっても、片道2時間くらいかけて、毎日のように、ただ病院に通い続けていました。海沿いの街の最寄駅に降りて、そこからバスに乗って30分くらい、山の方に進んで行きます。特に、最初の頃は、まだ登るんだ、どこまで行くんだろう、と世の中のすみの先まで連れて行かれるような気持ちになりました。
その日々に、あまり慣れていなくて、広く周りが見えていなくて、ずっとうつむき加減で生きていたように思います。
その単調な繰り返しの時間の中で、それでも、日常の小さな風景の微妙な違いに、今よりもはるかに敏感になっていたと思います。それは、今から振り返ると、家族介護者の独特の緊張感があってこそだと、思います。
毎日のように電車に乗って、駅で降りて、そこで1時間に1本か2本しかないバスを待っている時、いつもはただ疲れた視線で、周りを見て、待っていたのですが、この日は、少し、違っていました。それでも、今振り返ると、その頃の、疲れていて、なげやりな周囲への見方も反映されているような気もします。
(以下の文章は、その日のメモに、多少の加筆修正をしてあります)。
「介護時間」の光景③
バス停
まだ来ていないバスを駅前で待っていた。これから病院へ向かうところ。
近くに同じようにバスを待つ家族がいる。
小学校4年生くらいの男の子。3歳くらいの女の子。
そして、その2人を連れている、祖母と思われる女性。
男の子と祖母らしき人が話をしている。
あまりかみあわない会話なのは、そばで聞いていても、分かる。
ただ、どちらも言葉はずっと出しているから、いっけん話が弾んでいるようにも思えるけれど、ずれていて、そして、私には、内容のほとんどは分からない事ばかりだった。
というよりも、興味が持てないだけだったのかもしれない。
言葉は、それでも勝手に耳に入ってくる。
…けんじゅうって、撃たれた時のよけ方。知ってる?
思わず、男の子を見た。
…こうやるんだよ。
それでも、あまり見ていないし、聞いていない祖母。
男の子は手を上にのばし、腰から、うしろにそらし、ひざも曲げ、手を少し回すように動かしている。
映画の「マトリックス」のマネなのだろう、と思った。
あれは、キアヌリーブス以外では、それほどカッコいい場面とは思えないけれど、確かに印象には残り、この男の子がマネをするまで、どれだけの人間がマネしてきたのだろう。
そして、マネをした姿がかっこよく見える事もほとんどなかったはずだ。
今の男の子もそうだけど。
(2001年4月9日)
それから19年がたった今日(4月9日)は、いい天気です。
秋になると、やたらと落ち葉が落ちて、だから、できたら伐採してほしいと、いつもは思っているイチョウ並木に、若葉が生える季節になり、幹から直接、小さい葉も出てきていました。自分でも、調子がいいと思うのですが、そういう時は、新鮮な緑を見て、写真を撮ったりしました。
2018年の暮れに、義母が突然亡くなり、19年の介護生活も急に終わりました。それから1年ほど体調があまりよくなくて、情けない話ですが、今年になって、やっと普通に動けるようになってきました。
ちょうど、その時期に、感染拡大防止のため、緊急事態宣言が発令され、「いつまで続くか分からない不安」が、さらに、世の中を覆うようになったように思います。
とても、個人的な感覚にすぎません。
ただ、私自身は、介護を終えたにも関わらず、あの頃のような感覚での暮らしが、再開したような気持ちがすることがあります。考えが甘いのかもしれませんが、「いつまで続くか分からない不安」の中で、また生きていくことになるとは、思いませんでした。
今後も、同じ日付の「介護時間の光景」の記録がありましたら、その時に、やはり、このnoteに掲載させていただきたいと思っています。
改めて考えると、「介護時間」という独特な時間の流れの中で、そういうとても小さい発見が、自分を支えていたことの一つだったようにも思います。
もし、ご興味があれば、他のnoteも読んでいただければ、幸いです。
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『介護離職して、10年以上介護をしながら、50歳を超えて臨床心理士になった理由①』
『「介護books」 ① 介護未経験でも、介護者の気持ちを分かりたい人へ、おすすめの2冊』