日本帝国陸軍 山砲兵第29連隊
表紙写真はWikipedia、ニューブリテン島(ニューギニアの戦い)で破壊され、アメリカ海兵隊によって検分される日本陸軍の山砲。
山砲兵
「山砲」は大砲の一種。分解すれば馬や人でも運ぶことができるサイズの榴弾砲。第二次世界大戦ごろまでは、特に山がちな日本などでは需要の多い兵器だった。「山砲兵」は、この兵器専門の兵種になる。
ヘリコプターなど山岳地への運搬手段が発展した現代では、この兵器も兵種も、すたれてしまっているようだ。
山砲兵第29連隊
僕の父方の祖父の軍歴で、彼が最後に所属していたのが「山砲兵第二十九連隊」だった。(ちなみに、連隊というのは数百~数千人程度の集団らしい。)
ネットを検索しても、ほとんど何も引っかからない。この手の資料なら一番らしい靖国神社の図書館にも行ったが、そこにさえも詳しい資料は無かった。例えば山砲兵第11連隊には、連隊のOB達が戦後に書き残した立派な表紙の「連隊史」なるものがあったのだけど、同じ大陸に居た筈の第29連隊には、そんなものは無かった。司書のご老人に見せていただいたマニア向けのまとめ資料には、至極あっさりと、こう書かれていただけだった。
とくに山も落ちも無い記録でしかないけれど、祖父の軍歴と、同時期の戦争の状況について、以下、昭和の年号と彼の年齢とで記載する。
祖父の軍歴(15年、20歳)
僕の祖父は、四国・徳島県、山村の農家の五男に生まれた。15年に20歳で徴兵検査を受け、16年の3月10日に香川県の連隊に配属された。すぐに大陸に向け出発し、3月25日にはソ連との国境に近い北満州の虎林に到着、そこで第11師団の山砲兵第11連隊に配属となった。ここで新兵としての訓練を受けたのだろう。
戦争の状況:満州(16年)
ソ連は16年6月、西からドイツに攻め込まれた。ドイツ軍は猛火のようにソ連の領内に押し入り、一時は首都モスクワのそばにまで迫った。(ロシア人はこの戦争を「大祖国戦争」と呼ぶ。彼らにとっても、国が亡ぶかどうかの瀬戸際だったのだ。)
日本には、この機会を活かしてソ連との「国境問題を解決」しちゃおうか、という意見があった。ドイツが西から攻めているうちに日本は東から攻めよう、というような話だ。演習を名目に、日本陸軍は北満州の大幅な軍備増強を行った。
祖父の軍歴(16年、21歳)
祖父は、北満州の大増強の最中に転属となっていた。転属先は北の国境からずっと南、当時の満州陸軍の本拠地だった奉天省の第29師団。満州陸軍いわゆる「関東軍」の中央直属の戦略予備師団で、各地から兵を集めて新設した部隊だったようだ。海城という街に駐留する、山砲兵第29連隊の観測中隊が、彼の最終的な配属先になった。
この「兵342名」のうちの1名が、満州に来て4ヶ月目の新兵だった僕の祖父だ。どういういきさつで、何を基準にして、彼らが選抜され転属されたのか、はっきりした記録は見つけられなかった。
戦争の状況:満州⇒南方(16年~18年)
南方を目指す国の方針変更があり、満州からソ連に攻め込む案は立ち消えになった。
日本陸軍は南方を目指して兵を進め、米国は対して石油禁輸の措置をとる。備蓄の石油が無くなれば戦争が出来なくなる、焦った日本は16年の12月に先制攻撃をする。ハワイの米国艦隊とインドシナの英国艦隊との両方が、ほぼ同時に、日本軍の航空隊に壊滅させられた。「飛行機はこんなに容易に戦艦を沈められるものか」と、攻撃をした日本軍が自分で驚いたくらいの快勝から、「太平洋戦争」が始まった。
半年後の17年6月、ミッドウェー島をめぐる海戦で、米国艦隊は日本艦隊の空母4隻を沈めてハワイの返礼をする。9か月後の18年4月、ハワイ攻撃の立役者だった山本五十六を、米国は彼が乗る軍用機ごと撃ち落とすという方法で暗殺する。南方における日本の旗色は、どんどん悪くなっていた。
祖父の軍歴(18年、23歳)
彼の軍歴は、大陸で途絶える。最後の行には「昭和18年11月11日 顔面右手右下肢左下肢爆創」とだけ書かれている。なんらかの爆発によって顔・右手・右足・左足に大怪我を負った、ということだ。
第29師団は大陸での戦闘に参加していた記録は無いので、これはおそらく訓練中の事故だったのだろう。部隊を北の大陸から南方の島々へと転用するための訓練だったのかもしれない。
この「爆創」は、彼から右手親指と人差し指とを永遠に奪い、彼を内地の病院へと搬送させた。広島の病院に居たらしいと本人から一度聞いたことがあったが、それについては軍歴には何も載っていない。この大怪我によって、除隊となった扱いなのだろう。
戦争の状況:南方(19年)
祖父の除隊から3ヶ月後の19年2月、山砲兵第29連隊は廃止され、「島嶼戦用海洋師団」というものに再編成された。満州から朝鮮半島南端の釜山港へ集まり、そこから南方の各地へと展開されたようだ。
そのひとつ、マリアナ諸島のテニアン島は、グアム島の北100kmほどにある。大きさは小豆島の3分の2くらいの比較的大きな島で、当時は日本の植民地として、大規模な砂糖工場や飛行場があった。
同年6月のマリアナ沖海戦で、日本海軍は空母3隻と多数の艦載機とを失い、マリアナ諸島は空も海も、完全に米国のものとなっていた。最後に残った陸の上、テニアン島での7月の戦闘は、一方的なものだったようだ。攻め手の米国海兵隊の兵員数は、日本陸海軍あわせた数の6倍以上。大きな飛行場が作れるくらい平坦なテニアン島は、そもそも防衛には向いていなかった。米軍上陸から10日ほど続いた戦闘の結果、日本側の兵員は9割5分が戦死した。
祖父の経歴(20年、24歳)
広島の病院を退院して故郷に戻った彼は、隣村の娘の家に婿入りをした。娘は(つまり、僕の祖母は)大阪の兵器工場への学徒動員から戻るための言い訳として、故郷の農家を継ぐことにしたのだという。この時代にはよくあることのようだが、結婚を決めたのは両家の両親で、彼も娘も結婚式の当日まで、互いの顔も見たことが無かった。
戦争の状況:南方⇒本土(20年)
日本軍が建設したテニアン島の飛行場は、米軍によって再整備され、日本本土に向かう爆撃機の発着基地として使われた。
祖母が居た大阪への空襲も、祖父が居た広島への原爆投下も、テニアン島から飛び立ったB-29の仕事だった。