人生のつまらなさについて。
生きるのに楽しいもクソもない。
人間という生き物はあくまで生き物であって、決して最優秀生物ではない。
人間が優秀という言説はあくまで人間が勝手に語り出した言説であり、他の動物が人間を崇めているわけではない。
なのにも関わらずだ。
人間どもの中には自分の人生は唯一無二の最高のストーリーであるべきだし、自分とは最高の主人公であるべきだと考えてしまう輩がいる。
自意識過剰にも程があるだろう。
それはまさに過去の自分であるだろうし、もしかすると現在の自分かもしれない。
そんな過去の自分いや、いま現在の自分に向けて文章を書こうと思う。
期待するな、という渾身のメッセージを込めて。
「もしかして、人生は面白いのでは?」という誤解
僕曰くだが、人生はあまり楽しくない。
厳密には人生は現在進行形で楽しむにはあまりにも複雑で、不確実性の高いものだ。
尚且つ、想像を絶するほど苦しい。
しかし、苦しんで歩んだ道のりも途中で振り返ると、あたかも自分の人生が "現在というゴールを目指して様々な障害を乗り越えてきたシンプルで読み応えのある物語" かのように感じる。
しかし、それは錯覚だ。
喉元過ぎれば熱さ忘れるという言葉があるように、人間には時間が経ってしまうことで、どんなに嫌な経験も良い側面ばかり思い出の最前列に持ってくるという習性がある。
つまりは思い出補正が掛かっているだけで、そうでもしないと生きる気力が湧かないまであるので、人間の脳はあえてこの錯覚を作り出している。
そうでないというなら、なんだこのつまらない人生は。
「未来は面白くなるはず」という誤解
「今は退屈だけど、もしかすると未来は楽しくなるのかもしれない」
と考えたことがあるが「そんなことはない」と声を大にして言いたい。
男性はスカートの下が気になるだけで、パンツが見たいわけではない。
若者は次の動画が何か知りたいからTiktokをスクロールするわけで、面白い動画ばかり見ているわけではない。
では、おおよそ99%の動画が大して面白くないにも関わらず、なぜtiktokを開くのだろうか。
それは面白い動画以外は覚えてないからだ。
笑えない芸人のギャグなど覚えてるわけがないのと同じで、魅力を感じず共通点すらない異性の名前を忘れる理由とまた同じだ。
アナタは小学校1年生の時、最も興味のなかった異性の名前を思い出せるだろうか?
これらをすなわち「思い出補正」と呼ぶわけだが、同様の処理が未来に対してのイメージでも行われている。
頭の中にある過去の記憶も、未来のイメージも。
横並びに同じく単なる妄想であって、決して事実などではない。
つまりは、未来に対しての期待も、過去の思い出の微笑ましさも、どちらも脳内で補正が施された結果でしかない。
「ストレス」が徹底的に排除された映像作品でしかないのだ。
つまり、未来には面白いシーンもある。
ただ、苦痛や退屈があまりにも多すぎるのだ。
人生は思い出を楽しむための準備
ここまで読んでいただいたアナタはおそらく、人生という物語を冷静に評価し、人生がいかにストレスに溢れていて、いかにつまらないかを理解したと思う。
しかし、それはあくまで編集なしでアップロードした場合であり、思い出という編集者は驚くほど優れている。
とある人気youtuberが以前動画内で、「1時間の面白い動画を作るために、18時間撮影することなんてザラにある。」と語っていた。
同様に人生の記憶も、殆どがカットされる。
全てのストレスは思い出補正を楽しむための課金と同じだ。
だから、僕は自分自身の退屈と苦痛に溢れた、このつまらない人生を我慢して我慢して凌いでみようと思う。
どうせ全て忘れるのだから。
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