「狂」という特別な霊力。

10,000人の感想よりも、その人の一言が、自分の方向性を決めることがある。
私が、ずっと長い間、自分がアウトプットするものが果たしてうまくいっているかどうか、確認するための指針としている方から、このたびの「かんながらの道」に対するお言葉をいただいた。
この方は、写真家ではないけれど、写真と同じく「視る」ことと「在る」ことのあいだにおいて、最も深いところで考えて、決して世の中に妥協することなく作品を作り続けている人。寡作であり、流行の物は作らないし、メディアに登場しないので、今日では名も知らない人も増えているけれど、世界的な大監督の一人でもある。
「カラーで針穴写真(!)が果たしてうまくいくのだろうか、とちょっと心配ではあったのですが、いいですね。
写真がもう一度、絵画に戻ったような錯覚にとらわれました。
これまでのモノクロで、形とはいってもくっきりとした線をなしていないまま、おぼろに揺れていた像に、色がのって、不思議な世界が現出しました。
面白い。
デザインも写真の並びも上手くいっています。
カラーからモノクロページへの移行もスムーズで、再びさくらの花ででカラーになって、赤いきつねの群れ、やがて進んでいくとモノクロでもカラーでもどちらでもいいと思えるように混在してくる感じもいいですね。
ただ都市の写真はもう一つまだ掴み切れていない印象を持ちました。
それにしても「日本人のこころの成り立ち」(1)から(4)も大論文、大いに価値のある本になっていました。」
この感想のなかの、「都市の写真はもう一つまだ掴み切れていない」というお言葉。たぶん、他の人から指摘を受けることはないだろう。
目に新しいとか、そういうポイントでは決して物事を見ない人だからこその感想。
何をもって掴み切れていないのか。それは、都市以外のページにおいては、かなり掴めているという印象を受けていただいているからこそ、でてくる言葉であり、そこから考えると、これまで私が取り組んできた日本の古層をめぐる旅の一つの集大成と言える今回のテーマ、「かんながらの道」において、都市以外のページは、このテーマにそったものになっているが、都市に関しては、このテーマで扱うには、まだ完全に消化できていないというご指摘だろう。
そして、その指摘は、そのとおりだと思う。
都市以外のところと、時間のかけ方において、かなり差があることは確かだし、「都市」と、「かんながらの道」というテーマを重ねることは、前回のエントリーでも取り上げさせていただいた、もう一人の方の言葉、「今の時代、カメラオブスクラの記憶を持ち続けることは至難なこと」と同じく、極めて至難のことだからだ。
自然のなかに、かんながら=神のおぼしめしのままの世界を見出すことができても、人為のなかに、それを見出すことは、簡単ではない。
しかし、現代人の大半が、人為の集積である都市をベースに生きているわけだから、ここを避けては通れない。そういう思いがあり、古代のことに関する集大成と、次の展開のあいだに架ける橋として、今回、都市のページを設けた。
都市と、かんながらの道をつなぐ鍵となるのが、本の中に挿入している荘子や空海や親鸞の言葉だ。
荘子は、老子とともに老荘思想でくくられるが、この二人の自然観は、大きく異なる。
老子の自然は、人為と対立する自然であり、現代の感覚でいうと、自然物から離れた人間的行為を否定的に捉えて、「自然を大切にすべきだ」と説くこと。この思想が過激になると、捕鯨反対をスローガンにする暴力的行為を正当化するという矛盾も起こる。
荘子の自然は、これとは違い、人間である以上、人為から逃れられないわけで、人為と自然のあいだに線引きをしない。いずれも有為という無常の存在であり、問題は、その有為であるものに執着してしまうこと。それが反自然ということになる。地位や財産に執着することや、家族の死に執着することさえ、荘子にとっては、自然に即していないということになる。
実は、旧約聖書におけるアブラハムの存在もまた同じである。イスラエルにとって、最も重要な聖人であるはずのアブラハムは、荘子と同じく、何事にも執着しない存在だった。
バビロンにおける栄華を捨て、故郷を捨て、荒野を旅し、その途中に、執着の権化であるソドムとゴモラの滅亡を見て、最後には、息子のイサクさえ、神の声に従って生贄にしようとしたアブラハム。
現代のイスラエルという国は、アブラハムを最も重要な聖人としているにもかかわらず、アブラハムとは対極のソドムとゴモラの側に立ってしまっているのだ。
日本において荘子の自然観と同じなのが、親鸞の自然観であり、自然を「じねん」と呼び、「おのずから、しからしむる」ということになる。
この自然は、ネイチャーではなく、自然体という感覚に近い。そして、日本には、西欧のネイチャーに等しい自然観は、明治維新まではなかった。
親鸞の説いた浄土真宗は、日本でもっとも信徒が多い宗教だが、この宗教にとって、自然というのは、ネイチャーではなく、自然体のこと。
そして、この自然体を歪めたり、阻んだりするものが、人間の比較分別。損とか得とか、上だとか下だとか、敵か味方の区別もそう。これによって、余計な計算や打算が入り込んでしまい、不自然な言動へとつながっていく。
人間は、大脳皮質を発達させてしまい、この大脳皮質は、物事を抽象的に比較分別することが得意なので、人間は、どうしても比較分別に囚われてしまう。
この分別からの脱却が解脱であり、宗派によって、その道筋は大きく異なる。
密教のような修行もあれば、禅のような瞑想もある。しかし、これらの方法は、特定の人しか取り組むことができない難易度の高いものであり、そのため親鸞や法然は、ひたすら念仏を唱えるだけという方法を提示した。
これは、法然や親鸞以前に、10世紀初頭に空也が始めた踊り念仏を起源とするもので、集団で踊りながら念仏を唱え続けることで、ある種の憑依状態となり、世俗のしがらみを超えることができる。
この方法は、古代の巫女舞にも通じる解脱方法であり、中世日本において、この解脱方法が脈々と受け継がれ、盆踊りなども、その流れのなかにある。
今でも日本人は、何かしら深刻な事態に直面した時、こうした解脱方法で、その悩みを洗い流すことができる。
この日本人の特性について、過去を反省しないとか、失敗に懲りないとか、否定的に捉えられることもあるが、困難に面しても前向きな気持ちに切り替えることもできるし、何より、苦し紛れに他人を犠牲にして自分だけを守るという執着の放棄につながる。それが日本人の美徳にもなっている。
渋谷の街を歩いていると、カラオケボックスだらけなのだが、これも一種の踊り念仏なのではないかと、私は思うのだ。
職場での人間関係をはじめ、ストレスが蓄積することは日常的であり、そのストレスを溜め込むのではなく洗い流す必要がある。休日登山に励む人もいれば、流行のマインドフルネスに夢中になる人もいるし、カラオケボックスで歌い続ける人もいる。
おしなべて、無意識であるにしろ、現代社会における解脱の道を求める人の行動だろう。
そして、空海は、このように看破する。
「三界の狂人は狂わせることを知らず。 四生の盲者は盲なることを識らず。 生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、 死に死に死に死んで死の終りに冥し。」
「三界」というのは、欲界・色界・無色界の三つの世界のことだが、「欲」は、淫欲と食欲で、「色」は、淫欲と食欲を超えた物質や地位名声その他の有為の現象に対する執着を意味するものだから、人間以外の生物にはない。だから、三界の狂人というのは、人間のことだ。
「四生」というのは、四つの出生の方法の違いを意味するが、 四生の盲者は、卵であろうが胎内であろうが、いずれにしろ生まれてくるものすべてを指す。
すなわち、生物全体として、自らが盲なることの自覚はない。だから、生まれた時も、暗闇のなかから生まれ、道理にくらいまま、この世から消えていく。
そこで、この空海の言葉で重要になってくるポイントが、人間を指す「三界の狂人」ということになる。
「狂」という言葉をネガティブに受け取る人が多いが、古代においては、そうではない。
「狂」は、古代においては巫女の憑依であり、神の降臨と重なる。それは、日常を超える境地であり、預言であり、新しい世界の創造を意味する。
今でも、ひたすら物事に打ち込むことを、「狂ったように」と表現する。
白川静さんの言葉によれば、「狂」の持つ意味は、本来「王」に与えられた特別な霊力を秘めていた。
そして、白川さんの好きな漢字の一つが、「狂」であり、これは、世間の埒外に逸出しようとする志であり、最大の賛辞だ。「狂」は、人間ならではの至境を意味する。
「三界の狂人は狂わせることを知らず」。ここで肝心なのは、「狂っていることを知らず」ではなく、「狂わせることを知らず」と空海が述べていること。
人間は、本質的に、そうした特別な霊力を潜在的に備えているにもかかわらず、卑小な分別によって歯止めをかけ、ラインを引いてしまい、そのラインの中の常識に囚われてしまう状態を、空海は、「狂わせることを知らず」という言葉で示している。
そのラインを超える狂人だけが、「死の終りに冥し」という状態を脱却できるのだ。
簡単に言うと、何事も、狂ったように打ち込まないかぎり、その道に通じる境地に至らないということ。
「狂」という言葉は、現代社会でネガティブに受け止められるので、代わりに、「ゾーン」という言葉を用いた方が伝わるかもしれない。
大リーグで活躍する大谷選手が、従来のスポーツ選手と大きく異なるのは、いくらお金と名声を得ても、野球以外の時間は、寝ているという話だ。
夜の街に繰り出して高級クラブで酒を飲んで女性にもてはやされたり、美食を楽しんだりといった派手な暮らしを当然の権利のように行うのが、かつての成功したスポーツマン像だった。
世の中は、大きな成功を成し遂げていなくても、オンとオフとか、仕事と遊びとかを分別している人が大半だが、大谷選手は、そうした線引きがなく、ずっとオンで、ゾーン状態にいるのではないかと思う。つまり、大谷選手は、「狂」という特別な霊力を身に宿らせるほど、それだけに打ち込んでいる。
ひたすらそれだけという境地になっていないと、見えてこないものがある。
宮大工も、そうした境地だからこそ、樹木の声が聞こえて、その声に従って建物を生み出している。
都市が、なぜ人を惹きつけるのか。それは、一部の人にとっては、そこが踊り念仏の舞台であるからだろう。
また一部の人にとっては、古い常識の外に出られる回路を期待するからだろう。
人間が作ったものであるにもかかわらず、一人の人間からすれば、あまりにも巨大な都市空間。自分の無力を感じれば感じるほど、むしろ逆に、爽快感や解放感が得られることがある。自分を超えた大きな流れになかに、自分が存在しているということに対して、自我の殻の厚い人は不安になるかもしれないが、自我の殻を取り払えば、安心感につながることもある。
宇宙の中の星屑のような小さな存在であるけれど、全ての星と同じように、いずれは儚く消えて行く身であるということが、宇宙の摂理と、この身を一体化させたかのようで、命の尊さを感じ、安らぎにもなりえる。
いずれにしろ、自我の殻を脱ぎ捨てて、狂うほどに何かに取り組むことがなければ、ものごとの道理にくらいまま一生を終えることになる。
冒頭に戻ると、私が、都市を掴み切れていないのは、都市以外のことは、この8年のあいだ、ひたすらこればかり狂うほどに取り組んでいたけれど、都市においては、まだ、そこまで至っていないから、ごく当たり前=自然なこと。そういう微妙に足らないところを、きちんと見ていただけるのは、その人が、それほどの深さで、自らを狂わせて、物事に取り組んでおられる証でもある。
________
「かんながらの道」は、書店での販売は行わず、オンラインだけでの販売となります。
詳細およびお申し込みは、ホームページアドレスから、ご確認ください。よろしく、お願い申し上げます。https://www.kazetabi.jp/
また、新刊の内容に合わせて、京都と東京でワークショップを行います。
こちらも、詳細は、ホームページに記載しております。
<京都>日時:2024年11月16日(土)、11月17日(日) 午後12時半〜午後6時
場所:かぜたび舎(京都) 京都市西京区嵐山森ノ前町(最寄駅:阪急 松尾大社駅)
<東京>日時:2024年12月14日(土)、12月15日(日) 午後12時半〜午後6時
場所:かぜたび舎(東京) 東京都日野市高幡不動(最寄駅:京王線 高幡不動駅)
