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(63) 真智子 ー 縄張り

確かにこの季節、都会で暮らすには辛いものがある。それは、単に暑さからだけのことではない。夏期休暇が終わる頃、毎年、真智子はその事を強く感じていた。真智子の住むアパートから駅までは、南商店街のアーケードがあって、雨に濡れることもないし、両側の店々の冷暖房によって夏は涼しく、冬は暖かかった。カラー舗装が綺麗で、何しろ快適で便利であった。真智子は、これといった理由があるわけではなかったが、アーケードを通るのを好まなかった。少し遠回りにもなるのだが、環七通りをしばらく歩いて、細い路地を抜けるのが習慣だった。別に意地になっているわけでもないのだが、雨の日もそうしているのだった。

今日は早めの退社だった。駅はいつもの顔ぶれとは大いに違っていて、高校生たちが、テニスのラケットやスポーツバッグを持って立ち話をしている姿があった。ロータリーに観光バスが停まっているいるところなどから見ると、夏合宿からの帰りだったのだろうか、と、ふと真智子はそう思いながら、商店街の方へ歩き始めていた。
「今日は特別、特別・・・だからね」
と、言い訳のようにつぶやくところをみると、いつもは意地を張っているのかもしれない。アーケードの中には、百店ほどの商店が並んでいて、調達できない物はないと思われるほどである。アーケードに入ると、いきなり冷房が真智子を包んだ。扉を開け放っている各店々からの冷房のせいであろう。
化粧品店と文具店で買い物をした真智子は、ぶらぶらと店々を見て回った。カラー舗装のタイルの色がきつ過ぎるのか、足がどうも地にフィットしない気がするのだった。
「私は将棋の駒か。落ち着かないなぁ、このカラー舗装は。よーし、今度は金で進んでやる。次は桂馬といくか・・・ほら、ダメだ。桂馬飛びはとても無理だわ」
真智子は童心に帰って、昔、おじいちゃんとよく将棋を指したことを思い出していた。

「真智子さん、今日は早いのね。着替えたらちょっと来てくれる?主人が鮎を釣って来たから、天然ものって珍しいでしょ、ね」
大家さんの家の前で、花の水やりをしていた奥さんに突然声を掛けられた真智子は、
「わぁ、珍しい物をどうも有り難うございます。いつもいただいてばかりでごめんなさい。着替えたら、すぐ行きますから・・・」
真智子は恐縮した。
「何言ってんのよ、いつもいただくのはうちだわ。研修の度に地方の物をお土産にいただいて、いつも嬉しいのよ、私たち」
真智子はいつも気楽に声を掛けてくれる大家さんの奥さんが、好きだった。
アパートのドアを開けると、いきなり冷気が流れてきた。
「あぁ、気持ちいい。夏はこれに限るわね。便利な予約タイマーで楽が出来るわぁ・・・極楽、極楽」
妙に年寄りじみた独り言をつぶやいた。おばあちゃん子だった真智子は、よく意味もなく口癖のその言葉を使った。
着替えを済ませた真智子は、
「さてと、大家さんの所へでも行くか。鮎か・・・久しぶりだわ・・・。よく田舎にいる時は、じいちゃんの釣った鮎を食べたけど、今日は久しぶりの塩焼きとでもいくか」

「ほら見て見て、真智子さん。天然の落ち鮎、珍しいでしょう?」
子どものようにはしゃいだ様子の大家さんの奥さんに、真智子は戸惑いながら、
「おじさん、なかなかやるね。この数を見ると相当な腕ですよ」
「あっ、そうだった。真智子さん伊豆出身だったわね。鮎もそう珍しいわけではないのよね。ひとりではしゃいでごめんなさいね」
「おばさん、違う違う。私、学生の時から通算すると、上京してもう十一年目ですから、天然の鮎なんか見たのは、随分昔のことですよ。もう何年も食べていないわ」
「そうね、そうよね。主人がね、鮎は縄張りをもって川で生きているんだって言うのよ。凄いじゃない、魚がよ、縄張りだって、驚いちゃうわよ。その習性があだになってね、友釣りとか言う方法で釣っちゃうんだって。そう考えると、かわいそうなもんね。人間って貪欲だわねぇ」
「縄張りねぇ。それを逆に利用して釣るなんて、おばさん、本当言うとそれって反則よね」
「そうそう、反則よ」
二人は、天然の鮎を肴にして、しばらくの間散々笑い、勝手なことを言い合った。真智子にとって大家さん宅でのひと時は、近頃味わったことのない穏やかな時間だった。

自室に戻った真智子は、いい時を過ごした後の充実感と安らぎを味わっていた。日々の煩わしさの中で、ただ時間に追われて、所定の位置につき、決められた仕事を着実にこなす・・・そんな昨日と今日に何ら違いも変化もないことに、真智子はいつも苛立っていた。それらは、もしかしたら、私でなくてもよくて、私が私であることの意味すらないと、真智子は思い始めていた。今日の、ひと時の大家さんの奥さんとの何気ない会話は、言ってみれば決められたシナリオから逸脱した、曖昧で勝手なアドリブの会話ではあったが、生きた会話だった気が、真智子にはした。
「縄張りかぁ・・・」
真智子は冷房を少し弱めると、ベッドの上で大の字になった。鮎の縄張りと一般に言われるが、限られた餌を求めている限り、そうでもしないと弱い魚だったら生きられないだろうな、と、真智子は鮎のことを思った。
「私にしたところで、決まった道を通って当たり前に出社して、決まった道をアパートまで帰る・・・縄張りを持ちたいと思っているわけではないわ。でも、考えてもみれば、他から見たら、これははっきり言って縄張りよ」
真智子は、そうつぶやくと、さっきまでの安らかな気持ちとは一転して、重い気分になるのだった。
「あらかじめ時間を予測して、エアコンのタイマーをセットして出社するなんて、やっぱり私、変よ。考えてもみれば、毎日同じ時間同じ電車に乗って、同じ顔ぶれと顔を合わせて、同じ駅で降りる・・・不自然よ、不自然だわ。机に向かって毎日同じ仕事をする。ミスのないように気を遣って・・・
もう、考えたくない。このままでは、やっぱりダメよ」
真智子は、目頭が熱くなるのを感じた。流れ出ようとする涙を必死に堪え、枕に顔を強く押し付けるのだった。

気を取り直したのか、真智子はベッドから起き上がると、鏡の前に立ち全身を映してみた。
「アーケードはとても綺麗だけど、人工的なのよ。人工的な都会に住んでいて、人工的も何もないけど、私は嫌なの。環七通りは凄い車の交通量だけど、ちゃんとプラタナスの街路樹があって、落葉もする。それが好きだわ。
床屋の角から曲がって駅までの路地は、アサガオが植えてあって、日除けの簾があったり、竹で編んだ縁台があったりするの。夕方には蚊取り線香の煙が流れて来たりするわ。私は生きている実感が欲しいの。優しい人の気配が欲しいのよ・・・あぁ、私は生きたい」

真智子は、先週観た新劇の女優を真似て、鏡の前で演じてみた。
「ってか、こんなもんだわ、私は、今」
鏡に向かって照れた様子で舌を出してみた真智子は、先程いただいた鮎をまな板の上に並べた。塩を振りながら真智子は、
「私もあなたたちと一緒かも知れないね。縄張りの中でしか生きてない気がする・・・」
真智子は、ふと伊豆の景色を思い浮かべた。



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