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(146) 生きている手応え
怖いと思っていることは本当に怖い。「大丈夫だからね」などと、言ってもらったところで決してその怖さが軽くなるものではない。
人は誰しも、これが怖いと深く思い込んでいることが、四つや五つあるものだ。それが日常生活の中で頻繁にあるとなるとやり切れない。その度ごとに怖さと闘わねばならなくなる。
「何が怖いのか?」
それによって生活そのものが大きな影響を受けることになる。胃カメラを入れるのが怖い、注射が怖いのなら、胃カメラを入れなければそれでいいのだし、「注射しないで薬だけにしてください」と、先生にお願いしたらそれで済む。それで済まないことが怖いと辛いことになることが多い。
人間関係で仕事で傷つくのが怖い、受験・就職活動の失敗によって自分の居場所が見つけられないから怖い、他者との良好な関係が結べないから人が怖いなど深刻な事態になることがわる。家から一歩も出られなくなり、引きこもった状態となることもある。家族と顔を合わすこともできなくなり、ほとんど自室から出ることができなくなる例も多々あるのだ。自信を失くし、自責の念に駆られて気分障がい(うつ病)、不眠、頭痛、胃腸障がいなどの病となったり、希死・自殺念慮を抱いたりする深刻な場合まである。本人も家族も辛い思いをする。やり切れない。
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内閣府の調査によれば、そんな理由からか引きこもりの人達は146万人いるということだ。一定地域の人口の何%か割り出し、単純に人口比率で掛け算をしたに過ぎない。確かに統計調査とはそんなものだろうが、現実はそんな単純なものではなく、実態はその倍であろうと言われている。深刻だ。その人数があまりにも多いからではなく、どうその生活から突破口を見い出していくのか、それが見えてこないからだ。これは特別な事態なのではない。誰でもがそうなる可能性があるのだ。
赤ちゃんが生まれる。
ずっとその赤ちゃんを見ているのも良いが、よく観察しているといろんなことが学べるから興味深い。絶えず手足が動いている。一見すると意味のない動きのようだが、そのうち寝返りをするための手足背中の筋肉を鍛えているのだ。それは後になって私たちには分かる。声が出始める。それは言葉でなく赤ちゃん特有の喃語で子音と母音で構成されていて、必ず連続した「音」でしかないのだが、言葉を発する前段階の発声練習をしているのだ。人の手を借りなければ生きられない赤ちゃんが、これから生きる先のことを考えた結果、手足の動き・寝返り・ハイハイからつかまり立ちを経て歩けるように自ら練習しているのだ。その動きが可愛い。親と、人と喋れるようになりたくて、喃語で音に過ぎないが練習をしているのだ。「ダダダダー」「ブブブブー」、意味はないが一生懸命出すくり返し音が何とも可愛い。
私たちは生まれたその時から、”生きる”とはというのを自覚し、その為の準備をし、その手応えを求めているのである。赤ちゃんの手足の一見無意味とも思えるその動きは、生きているという手応えのそのひとつである「移動」の為の訓練であり、子音と母音の連続した喃語は、手応えとなる人との「対話」の練習なのだ。赤ちゃんがまさに”生きる”の原型を生きている。私たちはあの可愛い赤ちゃんから学ばなければならない。赤ちゃんは私たちにそれを教えに生まれて来たのだ。私たちが忘れかけた頃、迷いかけた時、それを教えに来るのだと考えられないだろうか。私は強くそう思う。求めて「移動」して動き回り、人との「対話」から人の繋がりをつくり、居場所をつくり、後にそれらを基礎にして自身の「役割」に気づき生きる。これが”生きている手応え”ではないのか。
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怖いなら回避してまずは”安心”であることを確保することが大切である。ゆっくりと身体も心も休めることに専念して欲しい。そこで生まれた”安心”は、エネルギーを蓄えてくれるはずだ。少しだけでいい。”安気”になったら「移動」してみたらどうだろう。寝返り・ハイハイからつかまり立ちと同じようにゆっくりしたペースでいいはずだ。帽子とマスクで変装したらいい。狭い範囲を歩くだけで立派な「移動」だ。焦ることは無用。一歩から怖がりながらで十分。「これください」と、コンビニのレジにアイスでも差し出すといい。「はい、○○円です」と、返ってくる。と、店員さんの声を後に店を出て、これで十分な「対話」だ。誰もそれをジロジロと見る人はいないことがわかる。”安心”だ。きっと怖がっていたこと、不安がっていたことは何も起きたりしない。ときどきでいい、これを気分の良い時に試すことで、そのうち怖いと思い込んでいたのだということに気がつける。大きな収穫となる。「怖さ」の為、安全な所に避難する。これは生きる場所の確保として大正解である。ところが、傷つくことが怖いのと同時に、感じる全ての感情にフタをしてしまい、楽しい・嬉しい・面白い・愉快をも手放すことになってしまうのは淋しいことではないだろうか。
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閉塞感の中で浮き輪に乗って漂っていながら、”手応え”が私にとって何であるかだけを見失わないで欲しい。見つけたらそのうち、それを目指して自分の手で漕げばいい。記憶にはないが、あなたが赤ちゃんだった頃をイメージできないだろうか。ヨダレまみれで手足を動かし、喃語をさんざんつぶやいたあの頃、きっと”生きている手応え”を求めていたのだということを。