(133) こんなに私が努力しているのに
「こんなに私が努力しているのに」
誰しもそう思う時がある。
当然だ。
職場・家族や周囲の同情・理解・協力が足りていないと感じたら、周りに対する「批判」の気持ちを「どんなに私が無理をしているか」と訴えたとしても当然かも知れない。
この訴えの無意識の目的は、相手に「罪悪感」を感じさせ、「何とか協力をしなければ」という気持ちにさせたいのだと思う。相手を変えたいのだ。
その苦肉の策である。
しかし、これはなかなか思うような結果が得られない。何故だろうか?お互いのやり取りが一段落すると、訴えたものも相手も”不快な感情”に襲われるからだと思われる。訴えた者は、思ったようなレスポンスは返って来ないものだから、”敗北感”と同時に”自己嫌悪”にかられたりして、その強い感情にため息をつくことになる。相手も訴えに応えて、今まで以上の理解や協力をしたとしても・・・「自発的でない」と思うのだろうか”不満”が重なり、くり返す悪循環を生むことになり、双方が”不快な感情”を抱くことにしかならない。実り少ない結末ということになる。
この流れは決まって、人間関係をこじらせる。訴えられた側も、理解し協力して孤立させないような配慮をするのだが、どうもプリプリとした態度をされ、やりがいを感じられず”不快”になる。どちらの気持ちもありがちで、よく理解出来る。しかし、このメッセージは双方にとって辛い思いを残すのみで、実り少ない結末が待っている。
何故なんだろう?
それは、そのメッセージの裏にある。
「どうして周りの連中はわからないのか。ダメな連中だ。周りが気づいて評価してくれたのなら私は満足なのに、あぁ私は不幸だ」
(この職場にはろくな奴がいない。本当に最低だ)という面白くないという評価が、心の大半を占めている。私の願いは満たされず、私は大切にされていないと、自身をも否定することになる。要するに、双方の”自尊感情”が激しく揺らされるからだろうと思われる。
人生の課題は多々あるが、中でも特に大切だと思うのは「自身を救済」することではないか、と考えている。生きることは容易ではない。学校・職場・家庭でストレスを受け、人間関係で疲れ果て傷つく毎日である。やり切れない気持ちは自身を他者を否定する。せめて人の気を引けないものか?と「仕掛け」ることに精を出す。切ないしやり切れない。
そんな傷つき疲れ果てた自身を救済しないまま放置しておく訳にはいかない。ダメージは積み重ねてはならない。どう救済するかは難しく考えることはない。「励ます」ことで元気にするか、「傷つく」ことを少しでも減少させ弱らせないかである。ただ、大切なことは”他力”にならず”自力”で何とかすることだと思う。”他力”の最たるものが、先程のたったひとつのメッセージで相手を批判し、思うように運ぼうとする”ドラマ的交流”なのだ。そんな意味で、他者へのストロークであるメッセージは重要となる。裏に容易に推測出来るであろう「非難」と「相手を変えたい」気持ちがあるのなら、決して気持ちよくそれを受けてくれるはずもないからだ。これは”ドラマ的交流”と呼ばれ、一種のゲームなのだ。ほとんど悪意はなく、プラスのストロークを
欲しくて繰り広げられるものだ。【(130)奇妙な反応 参照】「”ラケット”は心の中のマフィア」だから、時々いたずらをして、決して上手く願い通りににはいかない。また、しばらくして繰り返すことになる。こうして悪循環となり、抜け出すことが難しくなる。
先程述べた「傷つくことを少しでも少なくする」は、考えてみるべき重要な要素である。そもそも「ストレス」になるか?ならないか?は、押し寄せてくる・与えられる「ストレッサー」をどう受けとめるかで決まるものだと思う。要するに、受け止める時の自身の”思考”で決まるものだと考えられる。
その”思考”次第だということになる。
「人生は”幸せ”をたずねる旅だ」と誰かが言っていたことが、私に大きな影響を与えた。”幸せ”を考えるには紙面が足りないから、せめて「困る」ことにさせないと考えておくことにしよう。「ネガティブ」に捉えたり、自身の抱えている潜在的”不安”を持ち込んで、「ストレッサー」を受けとめないことが大切となる。”ドラマ的交流”は”ラケット”による悪さなのだから、”ラケット”を働かせないちょっとした発想の転換をすることだ。それは本音の気持ちの置き換えによって”ラケット”にしてしまったのだから、その本音を事情があったにしても「表現」すれば”ラケット”の出る幕はないことになる。そもそも”ラケット”は生まれない。
孫娘が四歳の頃、チビ坊が産まれた。みんながどうしてもチビ坊チビ坊となった。姉である孫娘は拗ねて、決まって部屋に閉じこもった。私は”間”を置いて部屋へ行き、拗ねて
「はいってこないで」
と、言う孫娘を抱きしめて
「【私を放っておかないで】と、自分の本当の気持ちを言おうね。拗ねるのはやめようね」と、よく言ったものだ。