(149) 他者と生きる
誰の前にも、当然他者が居る。
それはただ他者がそこに居ると言うだけのことではない。その人の信念・考え方・思想を含めた丸ごとが居るということであり決して単純なことではない。
「あの人の目が怖いんです。この頃はっきり言われる訳ではありませんが、遠回しに私のミスを責めているんです。全身から力が抜けて心配で心配で夜眠れなくなりましたこの訴えを聴くことが私の仕事である。確かにクライアントの訴え通りのことが起きているのなら、辛いし苦しくて不眠になるのも分かる気がする。これがクライアントの「真実」ではある。しかしこれは「事実」であるとは限らないから話は大変に難しいと言える。聴く私は揺れている訳にはいかないのだ。
「私を責めている」「私を見る目が怖い」この二つの言葉が大いに気になる。これらは、クライアントの思いには違いはないが言ってみるならクライアントにとっての「真実」ではあるが「事実」ではないかも知れない。「真実」というのは百人ひとが居たら百通りの「真実」が存在するということだ。「事実」はひとつしかないのだが・・・。何故こんなことになってしまうのか。この説明が並大抵ではないのだ。クライアントは自身の訴えが「事実」だと思い込まれていて、他の考え方を言おうものなら、自分を否定されたのだと誤解して取られる。その「真実」というのは、現実をそのように意味づけるという本人の主観を含んだものであるから客観的であるかどうかは疑わしい。「真実」というのを、世間は誤解して理解しているようだが、単にそれだけのものである。
そんな中で、私はそのクライアントの怖さ、やり切れなさを受け止め共感できるところを示しながらも、冷静で正しい位置から揺れることなく「事実」を見つめることが要求されている。また、それをクライアントに返さねばならない。並大抵のことではない。「冷たい目・責められている」というクライアントの「真実」以外の可能性が私のイメージに浮かぶのか?ここなのだ、大切な出発点は。その目は、送った他者にとってクライアントの訴え通り冷たいものなのか?ここに他者とクライアントの間の誤差が存在する。また、例えばミスをしたことを後悔していたとして、誰かから何か言われるかもしれないと不安になり、自分の中に罪悪感があるとしたら、そのクライアントの心の内の思いを他者に”投影”したとしたら、自分の心配通りのことが起きると決めつけることになる。他者の目・言葉は、そう、クライアントに丸ごと映るはずだ。このことも否定できないひとつの可能性なのだ。
あなたの見た・感じたものは「事実」と違い、先入観・思い込み・不安からの”投影”も含めて現実と大いに差ができている可能性がある、と、告げなければならない。これは決して、あなたを”否定”することではないことをつけ添えて伝えることになるのだが、なかなかこれが難しいのだ。人は誰しも反対意見を言われると、自分が否定されたかのように思い込むものだ。それほどまでに”自己否定感”が強く、それをプラスして受け取ってしまうのだろうと考えられる。「真実」と「事実」の根本的な違いについても付け加えて丁寧な説明をすることになる。当然、主観と客観に大きな差があることも伝える必要がある。
こう考えてくると、私たちはほとんど、他者なるものを誤解して受けとめている。私の言うなら勝手な解釈で他者を理解し分かったつもりになっているに過ぎない。そこから発生する他者への感情も、私の思考を通しているものだから、意味づけの誤差も含めると、実際の姿からはかけ離れたものである可能性がある。いったい私たちは、何を見ているのだろう。
ひとりでは生きられない私たちは、学校・職場・家庭・その他の集団の中で生きなければならない。その中で、いちいち他者に独自の意味づけをして、辛さ・悲しさ・怒りをつくり出してしまうのだ。これでは毎日がやり切れないはずだ。言ってみるなら「ひとり相撲」でもって自分を相手に、自身の中に”苦”をつくり出しているようなものだ。”怖い”ものなのか”安心”できるものなのか分からないまま私たちは他者の前に居る。事あるごとにその距離を自在に変えながら恐る恐る様子を見たらいい。”怖い”と感じたら大きな距離をとり、また、見切りをつけたらいいのだ。他者なるものは、その人だけではないのだ。だから、フットワークの効く自分でいたらすぐに動いて”安心”な距離に行くことができるから、フットワークをつけること、それが”安心”のひとつ。”怖い”という思いは「事実」と誤差はあるのか?ないのか?これが自身への問いである。私は「ひとり相撲」をしていないか?「ひとり相撲」をしてしまう要素は二つあると考えて欲しい。”基本的構え”と呼ばれている、人と自分に対して肯定できるのか否定してしまうのかがその一つである。その基本は自分を肯定できるのかということだ。自分を肯定できて初めて他者を肯定できるのだからそれが言える。この自己と他者を肯定する構えこそ大切な要素なのだ。もう一つ、それは”認知の歪み”が自身にあるかどうかが要素となる。その”認知の歪み”は紙面の関係もあり次回で取り組むことにする。
「自立とは、異う誰かと共に生きること」
私はこの半世紀みなさんに訴えてきた。
どんなにか異う他者を認め、一致するところを探し、共感できるところを共に喜びそうすることが、どんなにか他者と生きることの基本であるかという意味から、私は訴え続けている。