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(152) 結末のない脚本
「もう頭を下げることも、上司の言いなりになることも沢山でした。散々なめに遭ってきましたからと威勢よく辞めたまではよかった訳ですけど、日が経つにつれて頭も身体も動かなくて、ただため息ばかりつくようになりました。だからと言って辞めたことを後悔している訳ではありません。あんな会社に居続けることは、もうそれ以上出来ませんでしたから」
このような訴えで早期退職を希望された営業部長さんの面接が始まった。耐えられないほど暑い八月の金曜日だった。私の得意分野であるにしても、今にも倒れそうな五十八歳大手商社の部長さんの弱り方には、私も簡単に言葉が出なかった。息子さんの強い勧めでの来所というのは、私にとって初めての経験であった。十五年ほど前になるのだろうか、県立のあるトップクラス進学校で二・三年生に話をとの依頼を受け「自分で自由に書いていいよ」との題でパンチの効いた講演をしたことがあった。息子さんはその中の高校二年生のひとりであったらしいのだった。その時のカウンセラーの先生の話を父にも聞かせたいとの息子さんからの依頼であり、私も少々緊張した。涙が出たのは、その息子さんがカウンセリング費用を自分が出すという依頼だった事だった。久しぶりに私が腹をくくらねばならないケースとなった。
「こんな会社辞めて、若いのだから第二の人生を謳歌するんだと胸が膨らみました。しかし、意気込んだ割には現実は踏み込む力もなく、煩わしさから逃げたかっただけなのではないかと思い知らされた様で、私のような人間は縛られて煩わしさの中でしか生きられない情のない奴なんだと・・・ため息ばかりです。今、自由の身になったのに空いた時間が潰せないんです。何をやってもいいはずなのにボーっとしているだけで、新聞の活字が入ってこない。テレビを観ても映像と音が合わないんです。人生でこんなの初めてのことで、どうかなってしまって取り返しがつかないのではないかと不安です。外出してみたらと妻によく言われますが、人目が気になるのでしょうか、運転も怖くて外出は出来ないのです」
苦しそうな表情の部長の訴えを、ひと言も逃さず聴きとりながら、いつもそうするように10ある階段に今後クリアすべきクライアントの課題をひとつずつ置いていった。”寛解”に至る道すじが、私にもはっきりと見えて来ない不安を持ったまま、息子さんの願いを思うとき、ただ私が不安がっていてはと思いながら、長い道のりのイメージを追った。苦しそうな部長さんの訴えのトーンが下がるのに二ヶ月を要した。ただただ私は傾聴に徹した。
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人は誰しも”生き方”を変えようなどと大それたことを思う時・喪失したものなどを埋め合わさねばと思ったりする時、意気込みが先行して力んでしまうものだ。成り行き上、それは仕方のないことではあるのだが、力み過ぎたのでは空回りしてしまうことになり一歩も前にでられないばかりか逆に後戻りしてしまうことになるものだ。新しい分野に挑む時、人はつい身構える。まったく身構えないという奇特な人もいるだろうが、身構えることは人の常だろう。しかし、それが過ぎているのだ、部長さんは。生真面目に何に対しても取り組む人なのだ。これ自体は凄いことなのだが、「過ぎないこと」・「空回りさせないこと」を心掛けたらいいのだと思う。歯車は回って初めてその役割を果たせるものだからだ。
「小説とか脚本ってありますよね。読まれますか?思うんですけど、作家の先生って書き始める時点でその作品の全てのイメージが出来上がっているものではないと思うんですよ。”題材”なり”主題”がキッチリとあって、登場人物の設定であるとか、流れの構成造りをきっとしっかりとして書き始めたりしていないと思いますよ。逆にそこまでだと筆が進まないのではないでしょうか。がんじがらめだからですね。”熱”を文字に写し変えていく。きっと書き始める時は漠然とした計画なんですよ。出来ていなくてもいいとは思いませんが、身構え過ぎないようにして、書きながら作品というのは出来ていくのだと思いますよ」
「人生も同じというわけですか。確かに私はしばしば人から言われてきました。固すぎると、融通の利かない人だね、と。ずっと気になっていました」
「作家の先生が”熱”を文字に写すことを始める。次々浮かぶイメージを漠然と考えてある”結末”に向けてひねったり延ばしたり、テンポを上げたりブレーキを踏んだり、迷いながらですよ。だから面白く興味深い色気のある文章が生まれるような気がしますけどね。研究論文ではないのですから」
「なるほど、息子が高校生の時に先生の講演を聴いたのは、そんなお話しだったのでしょうね。何も言わないものですから」
「若いこれからの人たちですから、ガチガチに考えるのはやめて、これからの自分の人生の脚本を何かに縛られることなく、好きなように思うままに漠然と”結末”をイメージして好きなように書いてください。アレンジ力とアドリブがとても大事ですよ!と呼びかけました。お恥ずかしい話ですけど、最後はスタンディングオベーションの賛辞をいただきました」
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先週の部長さんは、寒くなったからとホット缶コーヒーと肉まんの差し入れを持って、笑顔でカウンセリングとなった。ひと夏で大きな変容をされたことに、私はひとり身震いをした。
「もうカウンセリング代は自前です。最初の頃の分はガソリンカードにして息子に渡しました」
私はうれしくて泣いた。
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幼い時、古くなったタオルで雑巾を手縫いしたことが何度もある。洋服や和服を縫う時のようにしつけ糸であらかじめ布がズレないように押さえるなんてことはしないものだ。着地点をきっちりと決めておかないこと、これも”人生”に通じるところがあると思う。私の大切な根多のひとつだ。