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(147) 人生は根多探しの旅

不思議なことがある。
”寛解”されたクライアントの余裕からなのか、その人の好奇心からなのか、まるでクライアントが根多(ネタ)探しをしているかのようなカウンセリングになってしまうことがある。

根多探しのようだと言うのは、これは「こう考える」それでいいのかどうなのかを、質問される訳でもなく、私を鏡に見立てて写してみる。私がどんな反応をするのだろうかと、こちらが観察されてしまうというわけだ。私としては気持ちのいいものではないが、考えてもみれば、私の生業がそれに近いものだから、嫌だなんて言えた義理ではない。

人生そのものを旅に例えるなら、その旅は根多探しの旅なのだと思う。芸人さんが必ず根多帳というのを持ち歩いている。日々いろんなことが起きる。嬉しい・驚く・悲しい・腹が立つことなどこちらの気持ちに関係なくやってくる。そんな中に芸人さんとして、これは使えると思うことがあると根多帳に記入しているに違いない。並大抵のことではないはずだ。きっとそのほとんどが笑いに結びつかないだろうが、キラリと光るものがわずかながらあるのだろうか、そのわずかに賭けている。日々の生活を見つめるその目が笑いに直結しているのだ。そんな苦労をもって笑いに結びつけている。頭が下がる。

そう言う私も生業上、根多帳命というべき生活をしている。乏しい記憶力しか持ち合わせていないくせに私はメモを一切しない。生意気にも記録しないのだから忘れたり身につかなかったらそれまでなのにメモをしない。「合点承知」と腹に落ちる根多を拾い集めている。そうでないと、メモによって記憶したぐらいのものは決して身につかない。それだから、人様に参考として提案できるものにはならない。よく腹にはいっていないのだから、口先だけでしかなく軽いものでしかないからだ。くる日もくる日も、根多探しを忘れる訳にはいかない。例えば人の言った言葉・ドラマの中での台詞だけは、その言葉そのものが貴重だから正確な出処と言葉をメモすることにしている。

この根多というのは生業上・私自身の生き方にとって、とても有難いものだ。私が個人的であり狭い空間の中にしか居ない場合の根多とは大いに訳が違う。私の視野の外も含めて広範囲すべてから収集できる。私の信条・思考・知識以外のものは直接手が届かないこともあり、貴重だ。

風狂無頼の俳人、種田山頭火の孤独・漂泊の旅は命懸けであっただろう。芭蕉にしても、「野ざらし」「及の小文」の旅は、自身の思想と表現をつかみ取る旅であり、私たちの享楽的なそれとは大いに違い、侘しく惨い旅であったはずだ。その旅は難渋であっただろうし、人生そのものを決定するだろう命懸けの根多探しであったはずだ。山頭火は母の位牌と共に旅をした。自殺念慮を抱え、それに怯えながらの苦悩の旅は、「一期一会」に生きるという生き様に関わる根多を手に入れたに違いない。そして、自由律なる表現法に生きるとの決意でもあった。芭蕉も「野ざらし」「及の小文」の旅の中、血反吐を吐く思いで思想と表現をつかみ取った。「おくの細道」の旅の「荒海や 佐渡によこたふ 天河」は、それ以前の句とは大きく違い輝きをみせた。身動きできない暗闇の苦悩から自己変容を望み、根多をつかみ取る決死の覚悟での旅・・・命を懸けてまで・・・なかなか並ではできることではない。

私の根多の中のひとつに「人皆直行 我独横行」と、いうのがある。学生の頃、信州は松本の寺で拝見した短冊に蟹の絵とともにその賛が入れてあった。これは詠み人知らずであり、複製であると聞いていた。実を言うとそれを見た瞬間、縛られたような衝撃とともに身動きできなかったことを今でも覚えている。「人を真似るな」と理解した。「お前のままでいい」とも教えられた。このひと言は私から肩の力を抜いた。安堵し楽になった。今でも私の根多の中で大切なものとなっている。

きっと、人は誰しもそれほど意識しなくとも何かを見聞きした折、自然とこれはどこかの場面で参考になるかも知れないと記憶にとどめようとしている。それは、きっと偶然の出会いというものではないのだろう。無意識かも知れないけれども内面から「何かヒント」を求めていたからこそ、それとの出会いを活かし、取り込むことができたのだと思われる。ぼんやり生活していると思っているかも知れないけれども、頭の中のどこかで「生きるヒント」となるべき根多を探しているのだと思う。だとすると、必然の出会いと言える。

自身の中に自覚できる弱点はいくつもある。すべて完璧・完全などというものがない限り、私たちは弱点を抱えているものだ。ここが分岐点となる。弱点を認めて「困った困った」というのか、弱点などありませんと劣等感の反動から自己愛を働かせて幻想を持って生きるのかの分かれ目である。誰も弱点を認めたくないのが本音だろう。しかし、それを認めて「困った困った」と、言ってみる方がはるか多くの根多が手に入るものだと思う。その根多は私たちをふたたび輝かせる材となる。芸人さんのように根多探しもちょっとお洒落だ。