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木蓮

しばらく体調が良くなくて、朝日を浴びたらいいかも~とゴミ捨てに出た。

ゴミ捨て場へ行く途中、通り沿いにあった家が取り壊され、更地になっていた。そしてそこには新しく家が建つようで、四角く囲われている。

しばらく空き家だったその家には庭があって、ちょっと荒れてきていながらもザクロがなっていたり、花が咲いているのが見えて、ゴミ捨てやなんやちょっと通るときに、季節を感じさせてくれた。

春先、そこの横を通ったときに、木蓮がきれいに咲いていた。
長い冬の終わりでもあるその時期、大抵私はヘロヘロで、春を感じさせてくれる植物たちに力をもらいつつ、何とか日々を乗り切っている。
だからあんなにきれいに咲いている木蓮を見て、すごく嬉しくなった。
写真を撮ろうかと思ったけど、その日、私はカメラを持っていなかった。そして何となく、今日じゃない。と思った。

次にそこを通ると、木蓮は満開だった。
すっごくきれいに咲いていて、今日だ!と思った。
またその時もカメラを持っていなくて、でも、これはどうしても撮らなくてはと、わざわざ家にカメラを取りに戻った。

その後ほどなくして、その庭には重機が入り、次に通ると庭木以外は崩されていて、その先を考えると、胸が苦しくなった。
次に通ったときは庭木もなくなり、今日は完全な更地、そして新しい家の印をみつけた。

人間って傲慢だよなと思う。
すきに買ってきて、愛でて、でも飽きたり、世話しなくなったり、何かの拍子に植物にさよならする。一方的に。無意識に。

庭木が大きくなるには、それだけの時間が必要で、そこら辺の人間たちよりよっぽど年上だったりもする。
でも大きくなった木をわざわざどこかへ移植とかするには、手間もお金もかかるし、忙しい日々を送っている私たちには、なかなかそこまでできない。

あまり好きじゃなかったのに、勢いで買ってしまったクレマチスの鉢植え、今年とうとう枯れてしまった。
大事にしてあげられていなかったのに、その子はがんばっていた。
一番は気持ちが足りなかったんだと思う。ごめんなさい。

植物の声は人間には聞こえない。多くの人には聞こえないと思う。
枯らしてしまっても、消してしまっても、文句は聞こえてこない。
植物も命で、でもそんな風に考え出すと自分がもたないし、日常生活でバタバタしているうちに忘れる。傲慢だなあと思う。そしてそれも忘れる。

勝手に木蓮に感情移入したつもりで見ると、すごく悲しい苦しい風景だった。

でも更地にあったしるし、それは新しい兆しでもある。
ここに新しい家を建てる人は、きっと楽しみに違いない。
そんな目で、ピンと張られている赤いテープを見ると、少しワクワクした。

あの日、どうしても写真を撮らなきゃいけない気がした気持ち。
それに素直に、わざわざ家へ戻ってまで写真を撮っておいてよかった。
先が分かっていた木蓮と通じ合ったのかもしれないなあと、思ってしまった。


追記
このnoteをあげてから、
もしかしたら木蓮は移植された可能性もあると気づいた。切られてたところを見たわけではないし。そうだったらうれしいな。


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