元クリエイターの殺人犯、決着
『ルックバック』の書籍版が出た。
その前のいわゆる「修正版」に対する感想を綴ったnoteが自分にしてはびっくりするほどたくさんの方に読んでいただけた、言わば「身の丈に合わない夢を見せてもらった」恩もあって、最終的にどこに着地するにせよ、購入することは決めていた。
「修正版」からさらに修正が加えられるというアナウンスは事前に行われていたので、どういう落としどころに持っていくのだろう?と考えながら電子書籍で買って読んだ。
結果、「そうなったのか」と思った。特定の精神疾患に結びつけられる要素を排除し、「無敵の人」の暴走とも距離を置き、「普通の人にも場合によっては起こりうる」被害妄想を代わりのピースとして持ってきた。
なるほど、動機としては万人に理解しやすく、「修正版」の不自然なポイント「誰でも良かった」を明確に否定している。今回のあの人には、あの美大をわざわざ選んで乗り込まねばならない理由があった。
個人的には、創作の魔力でトチ狂った犯人にも「完成させられた作品がちゃんとあったんだ!」ということは極めて喜ばしい。「こういうものを作りたい」というアイデアレベルで終わってしまって、実際に生み出せたものはないのだろう、という推量は見当違いであったことが判明したので、勝手な憶測であの人のクリエイターとしての名誉を傷つけてしまったことをここにお詫びする。
だが、それなら、と違和感を覚えた。あの人は「自分がネットに上げた作品をパクった」のが誰なのかを執拗に調べ上げ、その相手だけを狙わねばならなかった。
「目についた美大生を殺すつもり」で無差別に十五人殺傷したというのでは、あの動機が霞んでしまう。美大の展示なら、作品には作者の個人名か、共同制作だったとしても制作チームの名前があったはずだ。殺された十二人がいずれもそのチームに所属していた、負傷で済んだ三人は無関係だった、というならわかるが、「あの美大の学生」という狙い方はざっくり大雑把すぎる。
その、ネットに上げた作品とやらが自分のアイデンティティに関わるほど大事だったなら、類似した作品を見て「パクられた」と感じ、相手を殺したいほどに憎んだなら、「誰が主犯か」は徹底的に詰めなければ逆におかしい。
それなのに、あの人は「誰がパクった?」をあまりにも気にしなすぎた。そこが不思議だ。
実際のところ、客観的に考えれば「パクられた」は事実誤認には違いない。あの人にしてみれば、ネットで全世界に公開しているのだから皆が見ているはず、という理屈でも、無名の作家の作品なんてまともに鑑賞しに来てくれる人は少ない。
足跡を解析すればたぶん、訪問者は義理で来た知り合いかどこかの物好きか、間違ってクリックしてすぐブラウザバックした人だけで、「美大生なんか一人もいませんでした!」とわかってしまっただろう。
両者の作品がどの程度似通っていたのかは不明だが、仮にコピーレベルで酷似していたとしても、そこに「依拠性」がなければ著作権侵害には当たらない。あの人の動機を私が被害「妄想」と断定したのはそれが理由だ。
相似性が他者の目からも明白であるか、後発の作者が先行作品を参考にしたと判断すべき客観的根拠があるか、そういう部分をきちんと精査した形跡がない。何となく似ていたから「パクりだ!」と噴き上がったようにしか思えない。
今回のあの人の場合、責任能力が争点となることもなさそうなので、逮捕後は常識的に起訴されて裁判が進み、判決が下ることになるのだろう。
その過程で、「被告人が盗作と主張する作品についても、そこまでの特異性、独自性は認められず、よくあるアイデアと評するのが妥当であり」なんぞと言われてしまうのだ。
クリエイターとしてのあの人が真に「終わる」のは、自分の中で誇りにしていた代表作が凡作と断じられた、その瞬間なのだろうなと予想している。
今回の「書籍版」のあの人は、1読者である私との「心理的距離」という点で言うと、「修正版」のあの人よりだいぶ近いが、「初回版」のあの人よりは遠い。
「書籍版」のあの人は、過去の栄光にすがりつく魂の亡者であって、「初回版」の「誰かに刺さる作品を作りたい」のに「価値あるものを何も生み出せない」苦しみから、若い才能を憎悪したのとは違う。
前の感想文で私は、「修正版」で単なる「無敵の人」に成り下がったあの人を「元クリエイター」と呼んだのだけれど、「書籍版」で少なくとも1つの作品を完成させたこと、その後過去の自分に勝てないまま、その「自己最高傑作」を後生大事に抱え続けたことによって、「元」が確定してしまったのは皮肉なことだ。
それにしても、ストーリーの本筋でもない登場人物の背景をここまで考えさせてしまう『ルックバック』はやはり尋常ではない。初回版・修正版・再修正された書籍版まで見比べてこその部分もあるので、未読の方にはぜひ書籍版の購入もお勧めしたい。