涙は刺激で出る

「感動モノ」というジャンルが苦手だ。「死」を扱って泣かせるタイプが特に。死んでしまうのが子供や動物だとなお悪い。子供プラス犬の合わせ技『フランダースの犬』なんぞ、懐かしアニメ特集でもラストシーンだけは目を逸らしてなるべく見ないようにする、地雷中の地雷である。

泣く。それはもう安直に泣く。難病モノや戦時中モノもしんどいが、「飼い主に尽くす健気な犬」ネタなんて持ってこられようものなら、映画宣伝のほんの数分だけで涙腺決壊する。そんな有様で本編に耐えられるわけがないので、絶対に見に行くまいと決めている。子供が小学生になったらそれ系の親子向け映画鑑賞券がうちにも舞い込んでくるだろうが、付き添いは夫に任せたい。

なので、「死にネタで安易に泣かそうとするストーリーが嫌い」という人の気持ちはよくわかる。だが、そこに根強い需要があることも知っているし、単に「泣ける話」と謳うなら、誇張もないので問題ないと思う。泣きたい人が見に行けばいいだけのことで、見たくない人は回避できる。

やめてほしいのは、「感動巨編」とか何とか銘打って、涙の意味を飾り立てようとするパターンだ。タマネギ刻んで泣かせておいて、心動かされたからだとすり替えるんじゃねえぞ、という話である。感覚的に言うと、そういう類は景品表示法の「優良誤認」にあたると思うので、消費者庁にバリバリ取り締まってほしい。

確かに、見せられたら私は泣く。鼻水垂らして泣く。それは決して「感動」で泣いているのではない。花粉症患者へのスギ花粉刺激だ。悲しくないのに泣けてくる、コキンちゃんの青い涙と同じである。

以前飼っていた犬のことを思い出して身につまされる、というようなこともなくはないけれど、ほとんどは条件反射の「泣き」のスイッチを押された結果だ。聞いてみると、ペットを飼った経験のない人でもわりと似たようなところにスイッチを持っていたりする。

昔、演劇部の顧問の先生(国語担当)が「笑わせるより泣かせる方が簡単だ」と言っていた。中高生の演劇大会では、コメディよりもお涙頂戴の脚本の方が圧倒的に審査員受けがいいと聞いたこともある。おそらく「泣き」より「笑い」のスイッチの場所の方が個人差が大きいのだろう。

日本の平均的な学校教育を受けてきた人は、動物モノに限っても、だいたい『ごんぎつね』や『スーホの白い馬』で「泣き」のポイントをすり込まれている。学級文庫か図書室で『かわいそうなぞう』とか『チロヌップのきつね』あたりも履修する流れになるし、『100万回生きたねこ』や『オオカミ王ロボ』も実質必修科目だ。

「泣き」のスイッチはその人の個人的経験以上に、「学び」から作られている。女子だとそのポイントの的確な習得が「優しい子」の評価獲得につながったり、そこがずれていると変人扱いされたりするので、重要度はより高い。「同じ作品で泣く」のは仲間意識の醸成にも有用だが、ひねくれた見方をするなら、これが子供の無個性化に一役買っているのかもしれない。

「泣かせることは(心がこもっていなくとも)技術でできる」と言われるのは、「だいたいここら辺」というスイッチの在処が予測可能だからだ。そのツボを正しく押さえられる技術自体は評価されてしかるべきだが、それで泣かせておいて、「さあどうだ、感動させてやったぞ!」というのは心得違いも甚だしい。

「泣いた」イコール「感動した」ではない。感動はしたいと思うが、納得ずくでなく泣かされるのは不満が残る。してもいない感動をしたことにされるのはもっと不快だ。それで「感動」を煽り文句に使われると警戒する癖がついてしまった。

広告会社はたぶん、先から承知の上で客を騙しにかかっているし、真に受けて喜ぶ人も意外と多い印象なので、売り込むために有効な手段ではあるのだと推察する。「騙されるな」と言いたいわけではさらさらない。涙を流すのは心のデトックスになるので大いにするべきだとも聞く。

だが、心揺さぶられる体験を求めに行って、硫化アリルを嗅がされるのは違う。だから後者を「臭い芝居」と呼ぶのだ。

ただ、と少し考える。もし本当に舞台裏でわからないようにタマネギを刻んで、臭いで気づかれない程度にこっそり空調から硫化アリルを客席に流して、周りも自分もみんなぐすぐす泣いているという状況を作られたとしたら。「私はこの作品を見て、今猛烈に感動している!」と脳が勘違いしない自信がない。真の感動って何だ。