ちっともあったかくないやさしさのはなし

「やさしさ」というのは、実はものすごく利己的で身勝手なものだと思う。

他者にやさしくするのは、自分が気持ち良くなるためだ。そう心得ていたほうがいい。

私のやさしさが、誰かに何らかの益を与える方向で発揮されたとしても、それはあくまで二義的な、副産物的なものである。

自覚の有無は別として、自分で自分を「良いモノ」だと、「使えるヤツ」だと思いたい、要は「自己評価を上げたい(または下げたくない)」が第一義なのだ。

その主従が逆転すると、不幸のもとにしかならない。「してあげたのにしてくれない」という怨恨を生む。報われなさが凝り固まったおどろおどろしさと言ったらない。

喜んでくれたら嬉しいなあ、という程度の欲なら問題ないだろうが、相手からの感謝が足りないと不満を抱くようになったら危険信号である。

自分がそうしたかったからした、で完結するくらいのやさしさがちょうどいい。

だが、人は意外と、その「ちょうどいい」加減がわからない。際限なく差し出してしまったり、逆にひたすら求めてしまったりする。

これは一種の構造の問題だと思う。共同体に属する上で、その構成員にはお互いに「やさしく」することが義務づけられている。

その最小単位、「家族」が最も顕著な例だ。親に、子どもに、兄弟姉妹に、「やさしく」できることは手放しで賞賛され、そうでないことは厳しく糾弾される。

成長するにつれ、友達に、近所の人に、同僚に、そして名前も知らぬ人にと、「やさしく」するべき相手は増えていく。

「やさしさ」を与え合い、循環させることで社会がスムーズに回る、そういうことになっている。

ところが、その建前を真に受けると痛い目を見る。よほど幸運な星のもとに生まれついた人でもない限り、やさしさを搾取するだけされて、ボロボロになる。

そこで初めて言われるのだ。「やさしくする相手は選ばないと」と。

頭の中が「???」で埋まる。誰に、いつ、どのくらい、どうやって、やさしくすればいいのかを教えてくれる人はいない。

単に、相手に求められたとおりにすればいいというものでもない。

クラスメイトに宿題を写させるのはやさしさではない。アルコール依存の患者にお酒をプレゼントするのもやさしさではない。

法的・道義的に明らかに間違った行為をしている人にそのことを指摘するのはやさしさだけれど、相手からは逆恨みされかねない。

やさしさには大なり小なりコストがかかる。そんな中で、個人として無難な在り方は、「できるときに」「できるだけ」「したい相手に」やさしくするということになる。

自分の大事な人、言わば「こちらが支払う分のコストに見合う」相手とだけ、やさしさの輪を作って生きていく。

「善人しかいない理想郷」というのはきっと、その輪が拡大された先にあるのだろう。

そこは同時に、適切な与え方と求め方を知らず、輪から排除されてしまう人にとっては極めてやさしくない世界である。

「不寛容な社会」と呼ばれるのもおそらく同じものなのだ。

限られたやさしさを有効活用するための閉じた世界で、ささやかな幸せを仲間内で分け合って暮らす。それを否定することはできない。

やさしくされるために誰にでもやさしくするのは、あまりにもコストパフォーマンスが悪い。

自己犠牲的なやさしさは、美徳とされがちだが、しばしば本人や周囲に歪みを生む。

やさしくしたくない相手をスルーする自由の代わりに、その人たちに手を差し伸べようとする活動家を支援するべきだ、という理屈もあるが、これも少々押しつけがましい。

したいからする、が、しなければならない、になった時点で無理が出ている。

個々人のやさしさに頼って人助けをする仕組みは、持続可能性の面で不安要素が大きい。

切実に「他者からのやさしさ」を必要としている人に対して、そうと知っていてもその提供に躊躇するのは、一回あたりのコストの問題以上に、「一度やさしくしたなら最後まで面倒を見ろ」と迫られる、謎の責任を恐れるからだ。

覚悟を求められるから、「スミマセン無理です」となって、逃げ出さなければならなくなる。

コスト変動型・長期支払いコースしか選べない「やさしさ徴収システム」は、平凡な人間には重たすぎてとても背負えない。

やさしくしたければする、やめたくなったらやめる、それが許されればもっと気楽にカジュアルに、「やさしさ」を発揮できるだろう。

だからこそ、公助を惜しんではいけないのだと思っている。「そんなヤツを助けるな」「そんなことのために税金をつぎ込むな」と叫ぶべきではない。

それは、自分もいつか助けてもらう側に回るかもしれないから、ではない。

そんな日が来るかもしれない、でも来ないかもしれない、そんな想像をしているから、当事者意識の差で濃淡が分かれるのだ。

今日あるいは明日、たまたま目に入る場所でもがいていた誰かの手を、成り行きで掴んでしまったとする。

いざそうなってみたら、「ほいよ」と引っ張り上げることなど到底できず、立ちすくんでしまったとする。

そのシーンで、他に頼る宛がなければ「詰み」なのだ。恨まれると承知で見捨てても、力尽きて一緒に泥沼に引きずり込まれても、後悔しか残らない。

そこで「ゴメン、力不足だった」と心置きなく手を離すために公助があり、専門家がいる。おかげで私たちは、無計画なやさしさを悲劇にしなくて済む。

世の中に、浮輪は多いほうがいい。やさしい人がやさしさで溺れないように。