#04 私と渋谷〜人生の季節風🍃
ようこそ❣ 風瀬です( ´ ▽ ` )ノ
月初週2回の連載を始めて11日が過ぎました。
本日も訪れてくださりありがとうございます。
立冬も過ぎ、肌寒くなってきましたね。
ここ10年ほどは、渋谷に出かけても
宇田川町辺りに出かける機会は
滅多になくなっています。
が、先月末に続き、また予定ができ、
景色が変わったPARCOのあたりを
公園通りからオルガン坂を下って
ハンズの交差点を久しぶりに歩きながら
こんな季節に通っていたんだなぁ・・・と、
当時の自分と一緒に歩くような気持ちで
ゆっくり街並みを眺めてきました🐾
ここから本題に入る前に
1991年、
”渋谷に通勤することになった私”
について少し綴ってみます。
渋谷に縁ができるまで
1990年まで区立保育園で
保育士として乳児を担当していた私は
職業病とも言われる
腰椎椎間板ヘルニアで入院、
長期自宅療養の後、
12月末日付けで区の保育士を退職。
と同時に、区の借上げの寮であった
慣れ親しんだアパートも
退去しなければなりませんでした。
そのため年末までに、
公務員の退職金のほとんどを使って
引越すこととなるのですが。
上京の目的のスタートラインにも立てず、
どうすれば、
東京に残れるだろう?
保育以外にどんな仕事ができるだろう?
と、考えていました。
退職の意思を固めてから
身体に負担の少ない事務職を希望し、
とにかく履歴書を持ち求職するも、
保育士は専門職のため、
一般的な社会人として経験は
就職していた期間の半分以下と
みなされるとのことでした。
(当時の私が実際に聞いた話です)
途方に暮れている時期。
大阪で派遣会社の社員として働いていた
神戸時代の友人Mちゃんとの電話で
そんな近況を伝えると、
派遣登録を勧めてくれました。
派遣社員は即戦力。
前述の通り、私は
社会経験がほとんどない評価だけど
大丈夫かしら?と尋ねると、
まだバブルの余韻が漂っていた当時、
誠実に一から覚える気持ちのある人なら
採用してくれる会社も稀にあるとのこと。
その一点に希望を感じ、
彼女のいた派遣会社の東京本社のあった
紀尾井町ビルで派遣登録を済ませ、
数日の研修を受け、仕事を探しました。
今思うと、
退職時に勧められた職安に行く道を
もっと真剣に検討してもよかったところですが、
数ヶ月収入が途絶えることは避けたく、
その時点での私にとって最善の選択でした。
人生の季節風🍃
最初に連絡を受け取ったのが、
千代田区のゼネコンでの「ファイリング事務」。
千代田区番町に通うものと思ったら、
そちらは本社。
求人自体は東京支店のもので、
所在地は渋谷区宇田川町。
オルガン坂にあったルノアールで
派遣会社の担当さんと待合せると、
伺う会社はこのビルの中とのこと。
エレベーターで上階に面接に伺い、
無事、採用いただくことができました🌈✨
保育士時代の通勤は、自転車で8分。
初の通勤ラッシュを経験することになりますが、
渋谷なら地下鉄一本で通えるのでありがたく、
ほんとうに安堵し、
友人にも感謝いっぱい
こちらで仕事を教わりながら、
しっかり働こう
そう心が定まりました。
初出勤は1991年1月。
確か、お正月明けの5日だったかと。
”キーボード”ときけば、
鍵盤楽器をイメージする
完全初心者マークの私🔰
橋梁メーカーである土木建設会社で
最初に配属されたのは
橋の構造計算や資料や図面作成、そう、
数台のドラフターで設計図を手描きで生み出す
設計チーム✨
保育園とは真逆の
とても静かな環境。
A1サイズのトレーシングペーパーに
たくさんの正確な直線が引かれ、
整った文字や数字が書き込まれ、
美しい図面が完成するのを見るのは
いつも感動でした!
そののち6月、
おかげさまで私も
ファイリング事務、
電話対応、伝票整理、
そして懐かしの
ワープロ(OASYS、一太郎)
表計算(Lotus1-2-3)に
ちょうど慣れた
絶妙なタイミングで、
電算室にCAD が導入されることに❣
(キャド:コンピュータ支援設計ソフト)
それは、その6年後の私が
マニュアル本まで執筆することになる
”Auto CADとの運命の出逢い”
でもありました🌈✨
(※この話はまた別の機会に)
改めて振り返ってみても
この会社は言わば、
突然居場所を無くし
迷い猫のようだった私を
拾ってくださった救世主☆
事務もCADも実務として
一から学ばせていただけて
その後もチャンスやご縁をくださった
この会社だからこそ、
早くお仕事を覚えてお役に立ち、
派遣期間満了まで真摯に勤めよう!
そう思っていた・・・
そんな夏のある日。
お昼休みのランチ中に
東京アクターズスタジオという
もう一つの運命的な出逢いが
舞い込みました🍃
私史上、
忘れることのできない
ターニングポイントの詰まった
1991年の渋谷区宇田川町。
人生の季節風は、
私をピンポイントで
ここに運んでくれました🍃
繋いでくださったMちゃん、
数多くの学びと
有意義な機会をくださった
O建設のみなさま、
ほんとうにありがとうございました❣
心より感謝申し上げます✨💖✨
予想以上の長文!!!
になってしまいましたが、
そんな私が秋から通った
東京アクターズスタジオの
準備の流れをご紹介します。
レッスン準備1
開校式の1991.9.27付で配布された資料より
私たち夜間クラスのスケジュールと
参加のためのガイドラインを
順を追ってご紹介します。
前第3話でご紹介したフライヤーにも
写っていた通り、レッスンの録画には
本物のTVカメラを用いていました。
レッスンのスタートは18:30ですが、
毎回その前に、準備が必要です。
セッティング
主な準備は、
教材や配布物と
カメラセッティングです。
開校式の後、私は、
教材係(3名)に手を挙げました。
メンバーの自己紹介からも、
スタジオに一番アクセスしやすいのは
私だと自覚したからです。
お仕事は17:15が定時。
その後ロッカー室で制服を着替え、
タイムカードに打刻して退社。
5Fからエレベーターを1Fまで降り、
オルガン坂を半分下って、
渋谷ビデオスタジオ1Fから
エレベーターでまた5Fへ。
ここまで・・・所要時間3分。
実際、
雨が降っても雪が降っても
5分あれば到着できます。
その上、保育士と事務の経験から
35人分の資料準備は慣れたもの。
みんなは自宅、学校、
または、バイト先や職場から
電車に乗って移動してくるので、
この準備に関しては、
自分以上の適任はいない!
そう思えていました。
たぶんレッスン日は
朝からフリーの人も居たでしょうから
まあ、私の思い込み、なのですが。
高校の頃から「スタッフ」
であることが好きなのです。
ものづくりの現場にいることが
とても幸せに感じるので。
(次回につづく)
第4話、最後までお読みくださり
ありがとうございました。
今回は自分の話がメインになり
「レッスン準備編」に
やっと、やっと、入れました(^-^;)
ここからが本題なのですが、
2500字を目処に書き進めていますので
続きは次回とさせていただきますね。
気になる方は、11/15(金)正午ごろ
またお目にかかりましょう♪( ´ ▽ ` )ノ