臓腑(はらわた)の流儀 白狐のお告げ その5
凶事って、一体何が起こるんですか?」
靖子の声は自分でもわかるほど上ずっていた。
「それは具体的に今の時点でコレコレこうだとはお狐様にもわからないようです……」
「そ、そんな……」
「でも多分、最初は小さな災難で終わるでしょうし、賢明な貴女はそれに対策を取ることもできるはずです」
「最初はというと、それだけではないのですね?」
「申し訳ないけどそれもさわからないの。
でもそれをそうならないようにするのがわたしの務めだと思っていますよ」
お狐様はそう言った。口調は優しくおおらかに感じられ、先ほど感じた眼光の鋭さも消え、慈愛に満ちた眼差しさえ感じられるのだった。
「それで、それで私はどうすればいいんですか?手をこまねいて運命を迎え入れろと?」
「それはこのあと緑川がご説明します。大丈夫、信じることです」
「小山さん、お狐様を信じて!そうやって私たちも皆救われて来たの」
ここで背後から坂本が身を乗り出すようにそう言った。
『なんだ、やっぱり新興宗教みたいなものね?』
靖子はそう思った。
「主人にも報告しなければなりませんし……」
「当然でしょう?いきなりこんなことを言われて驚く気持ちは十分わかるわ。でも貴女は必ずわたしの許に帰って来る。それとご家族にも類の及ばないようにしないとね。
では今日はこれで。坂本さん、ご苦労だけど小山さんをご案内して」
そう言うとお狐様は席を立って祭壇に前にその身を移し、何やらブツブツと呟きながら祈りを捧げ始めた。靖子は坂本に促されて立ち上がった。
しかし足の痺れと緊張からかフラフラと立ちくらみがするようだった。
靖子は坂本と先ほどの緑川と会談した部屋に戻った。
今度は事務机に向かって座っていた緑川が立ち上がって迎えた
「お疲れ様でした小山さん。お顔の色が優れないようですが何かありましたか?」
その質問には坂本があらましを述べた
「そうでしたか。それはお気の毒なことだと思います。でも小山さんは最初はお悩みはないとおっしゃっていたのですよね?それならば自分で気が付かないうちにお狐様のお告げで警告をいただいたことはある意味ラッキーだったのかもしれません。私のように人生がメチャメチャになってからよりは対応の仕様はあると思います」
「対応って?先ほどお狐様も緑川さんが説明してくれるって言ったけど、私は何をすればいいのかしら?」
「はい、ご懸念はもっともなことだと思います。一番確実なのは小山さんに私たちの仲間になっていただいて共に活動をしてもらうことです。ここにいる坂本がそうですが白狐隊と称して、お狐様と悩める人々の仲介役をするボランティアのようなものです。」
「ボランティアなのね…でも、私は今日は都合があったけど、パートの主婦なのよ。なかなか難しいわね」
「そうすると、ここは単刀直入に申し上げますがご寄進ということになります」
『ははぁ、やっぱそう来たか?』靖子は思った。
「つまりお金を払えってことなのね?」
「誤解しないでいただきたいのですが、あくまでお狐様におすがりする玉串料という形でお納めいただいております」
「お幾ら払えば凶事から逃れられるのかしら?」
「私はお狐様ではありませんのでそれを明確にお伝えすることはできません。ですから皆様のお志ということになるでしょう。もちろん、運命が好転されてから改めて高額のご寄進を賜わることもございます」
「そうなの?後払いでもいいってことね?」
「そういう言い方では身も蓋もございませんが、それにしても、ご祈祷をお願いするわけですから、手付金という言い方も嫌らしいですが、まずは20万円をお納めいただきます)
「でも私の一存では決められないわ。主人に相談してみないと」
「ごもっともです。どうぞじっくりとご検討ください。でも手遅れにならないうちに」
「そうよ小山さん、お狐様のおっしゃられたように、大難は小難のうちに解決してしまうのが間違いないと思うわ)
坂本もそう口を挟んだ。
「時にご主人はもう定年退職されたのですか?」
緑川は探りを入れて来ているようだった。
「いえ、私よりかなり歳上ですけど、おかげさまでまだ勤めております。幸いあと数年は働けるようです)
夫、サム・ピーポディは靖子が卒業した私立三愛女子高校の姉妹校に当たる三愛女子短期大学で英米文学の名誉教授を勤めている。専門は「赤毛のアン」とその作者であるL・M・モンゴメリの研究である。
だがそこまで明かすつもりはない。どこまでもつけ込まれるのがオチだ。
「それでは小山さん、これが貴女にとって素晴らしいご縁でありますように。何かありましたらご連絡ください」
そう言って緑川は名刺を渡した。
「ああ坂本さん、小山さんを車でお送りしてあげてください。小山さん、先ほどお乗せした所まででよろしいでしょうか?」
「できましたら、松並町の方までお願いできるかしら?なんだか少しフラフラするみたい」
「もちろん大丈夫ですよ。その前にお着替えをしないとならないですが大丈夫ですか?」
そう言われて靖子はまた隣の更衣室で元の服装に着替えた。自分の匂いに包まれて初めて彼女は安堵感を覚えた。
再び坂本に促されてスリッパを靴に履き替え玄関を出ようとすると緑川が戸口まで見送りに来た。
「そうだ緑川さん、悩みがある人をお狐様に紹介するボランティアっておっしゃっていましたよね、私の知り合いで三角関係で悩んでいる人がいるんですけど、その人に紹介してもいいかしら?」
「えっ、小山さんのイメージからは想像がつかないようなドロドロした話ですね?もちろんご自身のことではございませんでしょうけど。もしそうならお狐様はお見通しですから」
緑川はそう言って乾いた笑いを漏らした。
「私の昔っからのお友達なんですけど、昔の同級生同士で結婚していたんですが、旦那さんの方、この人も私の同級生なんですが、彼が愛人を作っていたところに、やはり昔の同級生の男性が彼女の方にくっついちゃって……、打ち明けるのも他人事ながら恥ずかしいんですけど」
靖子は嘘は言っていない。しかし本当のことをすべて話したわけでもない。
古くからの友人たちである、ミッキィとケースケの加賀谷夫妻、そして水島孝一郎とのいびつで不思議な三角関係はもう何年も続いている。
しかし本人たちは納得づくで特に悩んでいる素ぶりは見られないばかりか、小学校からの同級生である靖子、ミッキイ、孝一郎とは別に中学からの友人でしかないケースケと孝一郎との親友関係は、ミッキィが孝一郎の愛人になってからさらに深まったようであった。
実は誰にも明かしたことはないが、その幸一郎こそ靖子の初恋の相手であった。
だが、小学生の頃から目立つ存在であった彼には仄かに想いを寄せるばかりであったし、中学生になってからは、親友のミッキィがはばかることなく彼への好意を示し始めたばかりか、3年時には孝一郎はやはり同級生の瀬戸裕美子との仲も囁かれたり、生徒会副会長の桑坂みどりとは公認のカップルの扱いさえされていたので靖子の出る幕はなかった。
彼女は高校進学後に英語講師として働いていたサミュエルと初めて本当の恋に陥ちたのであった。
「私たちは真にお悩みの方たちの助けになることだけを願っております。なんという方でしょう?」
「いや、まだそれは。本人たちにも伝えていませんし、個人情報にはやかましい時代ですから」
「ごもっともです。いやぁ小山さんのお気遣いは素晴らしい。では何か私どもの力が必要になりましたら名刺の携帯番号までご連絡ください。それでは失礼いたします」
そう取り繕って緑川は深々と頭を下げた。靖子も儀礼上同じように礼を返した。
住んでいるマンションを知られたくなかったので、坂本には自宅のある桜町ではなく隣接する松並町の電停前のスーパーの駐車場で降ろしてもらった。
先ほどのめまいに似たふらつきは治ったものの、やはりどこか騙されているような不安がつきまとい、簡単な買い物だけを済ませると歩いてマンションに帰った。
そして翌月、クリスマスの喧騒が終わったばかりの雪の日に事件は発覚した。