臓腑(はらわた)の流儀 その1

なお以下の記述はすべてフィクションであり、私の昔を知る読者が何者かを連想したとしてもそれは著者の知るところではありません。
「またおいでくださいねー」
しかし金髪のママは横町入口ではなく、戸口までしか見送らなかった。
路地の入り口に建つアーチ状の鉄骨にいくつか取り付けられた看板には、たったいま出てきた『朋』のものにしか光が入っていない。
アーチの上にはスズランの花を模したぼんぼり型のネオンサインが並んで湊町横町というありふれた名前が緑色で描かれていたはずだが、そんな40年も前のことをここのママは知っているのだろうか?
地方都市の寂れようは全国各地でずっと見続けていたつもりだったが、これが捨てたはずの故郷となると、流石の俺も滅入ってしまう。
ため息をつきながら、ふと路地の奥に蛍火が灯ったのを見たら、俺より先に店から消えたチーママが、空のビールケースに片脚を乗せたまま煙草の煙を吐き出した。
「なんで帰って来たのさ?」
「言ったろう、墓まいりだって」
「アタシがこの店にいる事は誰に聞いたのさ?」
いっぱしの口を叩くそいつが店では陽気に「ヨーコです。よろしく」と日本中で聞いた同じセリフの挨拶を投げかけたが、一眼で裕美子だとわかった。こんな場末のスナックでかつての想い人に邂逅しようとはもとより思いもしなかったに違いない。仕事終わりのひと時だった。まして裕美子の情報など古いツレにわざわざ聞くのもはばかられた。
世の中には切っても切れない偶然もあるのだ。
そんな感慨に耽りながら小さく灯る煙草の火を見つめていたら、雑多に積まれた酒箱の陰から太った男がふらりと現れた。
どう考えてもいい雰囲気ではない。
「裕美子、痛めつけていいんだな?」
デブが経典にはない文句を言う。経典など読んだこともあるはずがないことは、ネオンに照らされたデブの横顔を見てわかった。成長の証がこれっぽっちもない。
「後で問題にならないくらいにしてよ」
おお!それがかつてオマエの処女喪失を守ってやった俺の功績に対してのセリフかよ?
その昔俺にその行為を阻止されたデブシンジがにわかに赤鬼のような形相で近づいて来た。
「よう久しぶりだな、忘れたとは言わせないぞ!」
「テメェこそそのスカスカな頭で覚えていたのかよ?」
「水島ョォ、ガキの頃から大っ嫌いだったんだ!」
「好かれてたら学校の中で殴られはしないし、まさか俺がテメェのこと好きだとでも思っていたのか?あれから40年も経ち、恋愛の形の多様性はやっと認められて来たけどな!臭いデブだけは願い下げだ!」
40年前には中学一の馬鹿と公認されていた男も、流石に還暦を五年後に控えては、私が地に吐き捨てた唾の意味はわかるのだろう。
40年前の石炭庫の前と同じく、右のジャブで牽制して来た。あわよくば、一発当てて主導権を取るつもりだったのだろう。
しかし、私が故郷を離れた40年の間に元ボクサー崩れの立ちゃんに気に入られていたことなど、シンジはもちろん、真っ赤なルージュの唇から卑猥な仕草で紫煙を吐き出す裕美子だって知る由もなかった。
立っちゃんと、その夜の酒が抜けるまで繰り返した(そのまま朝日を拝んでから飲み直した日々よ!)ボクシングの反復練習、(それを俺たちはロールプレイと呼んでいたが)そのままに、繰り出された俺の左クロスが乾いた音を立ててデブの頬骨の下に当たった。しかも立っちゃんの教え通り・俺はシンジの一生忘れ得ないシルエットを闇の中に確認した時から左の手の中にはコインがぎっしりと詰まった小銭入れを、右手の中には中央アジア・サマルカンドで拾ったタイルのカケラを握りしめていたのだ。この異国の古代のタイルは御守りとして俺の窮地を幾度となく救ってくれた過去があるのだが、故郷の甘酸っぱい記憶の余韻に浸っている今はそんなことはどうでもいい。
デブのシンジは、俺のカウンターの一発だけで膝が抜けてズルズルと引力の法則に従って垂直に下がり始めたが、そこは売られた喧嘩だし、まして俺はもう中学当時の生徒会長でもない。内申書の内容を 気にする必要はない。
だが格闘の仕上げというものはある。
崩れ落ちるでっかい赤ら顔が文字通り目と鼻の先にあるのを察した俺は、奴の鼻の下の溝(人中の急所)めがけて前頭部の髪の生え際を使った頭突き、いわゆるパッチギを叩き込んだ。パッチギ(パチキ)とは半島の言葉であろうか。関西あたりのヤンキー少年はもっぱらチョーパン(朝鮮パンチ)なる隠語を使っていたのを思い出した。
しかし、立っちゃんの仕込みから20年以上経っていたことを、俺はようやくその時になってから思い出した。身のサバキが若干遅かった。
デブシンジの鼻腔から流れ出したコールタール様の鼻血が俺の額から、子供の頃から白系ロシア人みたいと言われた高い鼻梁を伝って、昨日買ったばかりのユニクロのジャケットの襟筋にぼたぼたと落ちた。俺はそれを脱ぐと、狭い路地の片側に壁のように積み上げられたビールケースの隙間に突っ込んだ。もったいないけど、故郷に遺恨を残すよりはサバサバすると思ったのだが、多分いまはロクでもない稼業についているか、道警に一資料として登録されているデブシンジと、中学の昔は清楚な美少女だったけど、いまだにかつてのレイプ未遂犯と濃密につながっているヨーコこと裕美子そのままにしておいた限り、この街は母と歩いた懐かしい故郷ではなくなくってしまったことだろう。見ず知らずの、しかもみすぼらしい店では飲むものではない。でも当たりが二十にひとつくらいあるからやめられないんだ!
さて次の店を探そう。甘ダレの焼鳥に燗酒なんかがいいな。アドレナリンの放出が終わったのか寒気を感じて来た。


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