昭和39年の東京オリンピックでフェンシングを指導したフランス人との出会い
ずいぶん前の話になりますが、南フランスのコートダジュールに一か月滞在したときに、忘れられない出会いがありました。
私はその日、アンチーブの街を訪ねてお土産屋さんをひやかし、ピカソ美術館でちょっとショッキングな体験をしたあと、海沿いを歩いてアンチーブの城跡に向かいました。
コートダジュールならではの美しいコバルトブルーの海を眺めていたら、白髪で背の高いおじいさんに話しかけられたのです。
「こんにちは。あなたは日本人ですか?」
傍にはご家族だろうか、ご老人よりも年下の女性が付き添ってらっしゃったので、私は安心して首肯しました。
すると、途端に破願したおじいちゃん。自分の身の上を語ってくれたのですが、なんとフランスでは政府から表彰されたことのある有名な方で、日本にも来たことがあるとのこと。
1964年の東京オリンピックに出場する日本のフェンシングの選手の指導を、日本から依頼されて来日したというのです。
実は私はフェンシングを少しかじったことがあり、おじいちゃんの前でフェンシングの構えをして、マルシェ(前進)とロンぺ(後退)をやって見せました。これには、おじいちゃんもびっくり!
目を見開いて、おお! おおっ! と大喜び。
初めて会ったとは思えないほど意気投合した私たちは、連絡先を交換してまた会うことを約束しました。
でもね、こういうのって、たいていは口約束に終わるのですよ。と期待しないでいたら、滞在先におじいちゃんから電話があり、ランチに招待されました。
日本びいきのおじいちゃんの家は、外国人流の日本で溢れていました。
一か月もフランスにいたら、日本が恋しくならないかと尋ねられ、何と答えようと思案していると、おじいちゃんが庭を案内して大きな石のこけしを見せてくれました。日本が恋しくて、自分で彫ったというのです。
南フランスのような遠い国に、こんなにも日本を愛してくれる人がいると思うと目頭が熱くなりました。
目が潤んだ私を見て、勘違いしたおじいちゃん。うん、うんと頷きながら、
「日本が懐かしいでしょ? この景色を見て日本に帰ったと思えばいいよ」と慰めてくれました。
あっ、やめて、そんな優しいこと言われたら、余計に泣けるでしょ。
「玄関にも家の中にも日本があるよ。ほら見てごらん。ここは日本だ」
おじいちゃんの言った通り、ドアの上には木の蔓で編んだ枠に折り紙が飾ってあり、廊下には油絵で描かれた肉感的な芸者が飾ってありました。
その色彩の豊かさは、日本画の繊細や静寂さからはほど遠く、私の中にある、白塗りのおすまし顔の芸者のイメージを根底から覆しました。
おじいちゃんの描いた絵は、芸者の強い目の輝きや仕草一つからしても、情熱的で生きている女性そのものだったのです。
「あなたは、素晴らしいフェンサーであり、芸術の才能にも恵まれているのですね」
おじいちゃんは、私の言葉をとても喜んでくれました。
おじいちゃんはフランス語と片言の日本語と英語を話し、私は英語と日本語と片言のフランス語を話したので、私の英語をフランス語に通訳するために、おじいちゃんの息子さんが呼ばれました。その方も市からの依頼で、ニースの街などに展示する作品を作るほど有名な芸術家でした。
その息子さんはテーブルに並んだランチを見て、すごい豪華だね。僕は家でこんな豪華な食事を食べたことがないよと驚いていました。
その後何年か手紙をやり取りしていたのですが、私が忙しくて手紙を出せなくなりました。おじいちゃんからの手紙も途絶えてしまいましたが、南フランスでおじいちゃんに出会えたことは、私にとって最高の思い出です。
大阪でフェンシングを教えたときに会った日本人に会いたいな。とこぼしていたおじいちゃん。見つけられなくてごめんなさい。
もし、まだご健在なら、パリオリンピックのフェンシングの試合で日本人が金メダルを取ったことを、心の中で喜ばれているかもしれません。
#忘れられない旅
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