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私が経済史のnoteを書く動機。そして川下り的な学び方。

本稿では私の「お気持ち」のようなものを書いてしまった。内容とエッセンスだけタイパよく知りたい人は無視してくれたほうがいいだろう。


オリエンテーションがあったほうがいいかもしれない

あまりに淡々とレクチャーを始めると、学校の授業のつまらなさを再現することになると危惧した。まずオリエンテーションとして、多少の自己開示があったほうがいいところだ。むしろ、このオリエンテーションがないならば、AIに任せたほうがいい。したがって、2025年現在では、もしかすると本題以上に大事になるのかもしれない。

「内容にいきなり入って専門用語がぽんぽん飛び交うようなレクチャー」というのがある。初心者は面食らってしまって早々に集中力をなくすものだ。

昔の大学の講義などは、黒板に「講義の主題(つまり単語)」が書いてあればいいほうだったという。「昔はよかった」などというつもりはないが、「ついてこれる者だけついてくればいい」という清々しさについては評価できるかもしれない。

いくつかの記事で「経済史を学ぶ動機、学んで得られるメリット」について紹介してきた。「なぜ経済史を学ぶのか」という根源的な理由については読者と共有したつもりだ。ところが「どうやって経済史を学ぶのか」とか「そもそも学び方がわからない」というスタート地点の人をまだ掬い上げていない。

久しく学びから遠ざかっていた人でも、入門でつまずかないようにしたいところだ。昨今のアプリやゲームのような、懇切丁寧なチュートリアルというかオリエンテーションを用意すべきだということになる。だがあいにく、そのようなチュートリアルはない。

川下り式の学びが必要ににある具体的な理由

代わりに、著者が一番「はじめやすく、つづけやすい」学び方というものを少々述べることで。許してほしい。まず、経済史に限らない。学びの一般的なことから始めよう。多様な分野に多様な学び方がある。「様々なやり方を使って自由にやってくれればいい」と言うのでそもそも十分だ。

しかし、「はい、皆さん自由に自分に合ったやり方でやってね!」というのは、単なる突き放しでしかない。むしろ、そのハウツーを求めてさまよっている人がたくさんいる、という現実を無視してはいけない。資格予備校や情報商材の市場が存在している。現役の生徒・学生も塾や予備校に通う。自分で学ぶ力など、初めからほとんどの人にはない。大卒にもない。

いつの時代も、とくに日本人にとっては「学び=習い事」である。つまり「習っていないことはできない」ということだ。人口減少社会になって離職率の問題が顕著になっている。仕事に人が定着しないのは、「成果が出せるようちゃんと教えないのが悪い」という「顧客目線のような従業員目線」の賜物でさえある。

なにしろ学ぶ側は、試行錯誤で学びたいなどと考えていない。できるだけ楽に「手取り足取り教わってできるようにしてもらう」というのが標準なのである。要するに「学ぶ側」ではなく「学ばされる側」ということなのだ。

しかも、実は意識高い起業家でも同じである。米国の一流大学の学生は単なる世間知らずの若輩者である。米国の大学がベンチャー創業を「支援」するとなれば、それはもう手取り足取りになるのは想像に難くない。

どういうことか? 技術開発だけに天真爛漫に躍起になっている若造が相手なのである。ベンチャーキャピタリストが手取り足取りの「指導」をするとなれば、顧客候補を引き合わせたり、MBAホルダーやコンサルあがりの人材を連れてきて、資金調達や売り上げ予想の計画書を作らせたりする。そうして、会社の持ち分をいくらかいただきながら、会社設立を「支援」してくれる。

まさに、よちよち歩きのひよっこ起業家を、七五三よろしく一人前に立ててくれるわけだ。海千山千のベンチャーキャピタリストは、こうして、未来の急成長ベンチャーの「持ち分」を手に入れているわけだ(かっこよく言うと、バリュエーションとかエクイティファイナンスとかいう用語がでてくるかもしれない。AIに聞いてみよ!)。

「学びやすい教材」とか「わかりやすい先生」の正体

何が言いたかったに戻ろう。米国トップ大学でのスタートアップ起業でさえこの調子なのだ。日本人の一般的な学生や従業員が「自ら学ぶ」などというのはまったくの幻想といわざるをえない。とにかく「学ばされる側」の立場に立てというのが、教える側(いまの場合は私)に、強く求められている。疑いない。

言い換えれば、読者視点の記事(マーケティングでいう顧客視点)とは、「学ばされる側にとって都合のよい記事」ということである。小学校のように単元が分かれていて、「めあて」があって、懇切丁寧に具体例で当てはめて、最後に「まとめ」もあり、確認テストもある。「教える・習うとはそういうものだ」と思っているのだ。

人材育成に関係するすべての人は、ぜひ心得てほしいことかもしれない。要するに、大人だと思って接してはいけない。大人とは、身体が大きくなっただけの子どもにすぎない。実際、人材育成の研修講師が用意する講習テキストなどは、見事に小学校式の構成になっていることに気づくだろう。

同時に、自己啓発系セミナーが受ける理由も明白になる。「学ばされる苦しみも試行錯誤の連続もないままに、成功像だけを無時間的にイメージできる」という癒し体験を、コーチングや自己啓発セミナーが提供しているからだ。

大学や企業研修はちゃんと教えていることになってない

ところが現実はどうだろうか。大学のゼミでは原典購読だの論文輪講だのという。職場では実地研修・OJTだのという。教わる側の身になってみてほしい。「え?めあては?なに、どうやるの?どうなったらゴールなの?どこから始めるの?」となるに決まっているではないか。ならば「ちゃんと教えてくれないから辞めまーす」というのは、当然の結果である。

原典購読とかOJTとかいっているのは、教材もコースも用意できていない「教える側の怠慢」にしか見えない。かつての大学の集団講義にもった印象そのものが、形を変えてやってきたということになる。研修テキストが充実していて、いつでも優しく先輩が手取り足取り教えてくれる職場で働いたほうがいい。そのように応募者・従業員側が考えるのも、至極妥当である。

と、ここまで徹底的に読者に寄り添ってきた。だが、私から読者に向けて忠告することがある。僭越ながら申し上げたい。

だれのため、なんのために未来予測がしたいのか?

何度も述べてきたが、「未来予測によって不確実の状況の中でのリスクを回避・低減できるようにするため、過去の失敗も含めて調べるために経済史を学ぶ」というのが私の唯一にして最大の主張だった。では、誰のための未来予測なのか? ぜひ、いまから本稿を読みながら、思いを巡らせてほしい。

単なる自己保身だけなのだろうか? 誰か守りたい人がいるのだろうか? 何か守りたいものがあるのだろうか? いったい何のために、だれのために未来予測に挑むつもりなのか? もちろん「無辜の民のために」という答えをしてくれてもいい。いわゆるノーブレス・オブリージュというものを地でいってもらっていい。

だが、おそらく今日の日本社会で、ベッドやソファに寝っ転がりながらスマホで本稿を眺めている現役世代の日本人が、ノーブレス・オブリージュに満ち溢れた回答をしてくれることはないだろう。

ノーブレス・オブリージュの現代的実践としては「世界を変える研究をする」とか「社会課題を解決するスタートアップをつくる」とか息巻いている層のことである。十分な気概と学習能力とを兼ね備えているのだろうから、本稿など読む必要性がみじんもない。早く未知の課題を特定・解決するための行動をどんどん進めるべきだ。

必然的に、ノーブレス・オブリージュとは程遠いところに回答がくるだろう。つまり「小市民的な一般大衆に分類される個人」が「身近なだれか・何か」のために未来予測に取り組みたいのだ、ということになる。もちろん「歴史総合」の前提の通り、グローバル化・近代化とならんで大衆化が重要なのだ。何ら恥じることはない。

たとえば「俺のビットコインがいつ暴落するのか。ずっとホールドしていてもいいのか。ビットコインの評価額の社会的根拠はなにか」というような実に卑近かつ利己的な問いでも、私は一向にかまわない。自分でリスクをはって資産運用をしている中で、リスクを減らす努力をしようとしている点を、むしろ前向きに評価さえしたい。

もちろん、「うちの店での原材料の調達の費用も、入ってこなくなるリスクも、どうにか減らせないか?」という、仕事熱心な問いでもいい。貿易、物流、エネルギーなどさまざまな日常生活が、いまやグローバル経済のなかで不安定になっているのだ。購買・調達ルートを複線化したり、価格交渉を改めて実施したりという工夫をするうえで、未来予測は急所を見つけるのにきわめて有効だ。

私が目指す射程・スコープの狭さ

だからといって、「ビットコイン投機と原材料調達とで、どちらが立派か?」などという問いに倫理的回答を与えるつもりは、私にはない。どちらがいいかではなく、どちらもいいのである。私が目指しているのは「困ってしまう人の不幸の最小化」なのである。主観的幸福や社会的福祉の最大化を目指しているわけではない。

各々が冷静に現実を見て、各々のリスクを自ら引き受けるときに失敗しないようになってくれれば、まずはそれでいい。皆が十分に未来予測の思考法を身に着け、論理的な議論ができるようにになったあとで、倫理については集団的議論をしてもらえれば十分である。

いまのSNSやAIの荒れ様のなかで、やれ脱成長だ、やれ熟議民主主義だといっても、とても話し合いにはならないに決まっている。まず「一人一人が未来を考える土壌」をつくるようにしたほうがいいと私は思う。これを辞書では「建設的」と表現する。

私は現実を重視している。「自動的に熟議民主主義の果てに脱成長の持続可能な社会が訪れる」などと夢想してはいない。同時に、経済思想家たちの論調にも一定の社会的意義も認めている。要するに、私とはみている時間スパンの違いがあるだけなのである。究極の目標を論じて長い射程を狙う人も少数必要だろう。まさしくノーブレス・オブリージュである。

しかし、残念ながら一般大衆は目先のニーズを満たすことに頭がいっぱいである。遠い射程など初めからもっていない。米国をみればわかるように、脱成長など論じても聞く耳もたない。近い射程しか見えていない人だけを集めたら、経済成長しか解がない状況になる。

どうしても利己的な利害対立が出てきてしまって、現実的には何もものごとを決められない事態になる。米国だけでなく、欧州や中国の現状を見ても明らかである。だから、遠い未来の究極の経済思想は思想家に任せておいて、一般人のリテラシーを底上げするのが優先だ、というのが私の立場なのだ。

学校の検定教科書の内容が、下位層の社会的な底抜けを防ぐのが狙いであるのと同様だ。しかし、先進国、とくに日本では内需拡大での経済成長が約束されている状況ではない。経済成長を目指すなら、ディープテックスタートアップでなくたって、必然的に「正解がわからないグレーゾーンのリスクを引き受ける」というスタイルが求められる。

だとしても、「ほんの少し未来が見える」という程度で、ほとんどの人生には十分すぎる。たいていの場合は、ほんの少しの未来どころか、直近の過去のことさえわかっていないのだ。皆が研究者になるわけではないし、想像力を発揮する分析的な仕事をするホワイトカラーになるのでもない。

そもそもホワイトカラーでさえ、ほとんどの人は、定型的な作業をする仕事に従事する。事情を考えれば、「できるだけ少ない労力で、ほんのちょっとだけ未来予測ができる」という程度になることを目指すだけで、目標設定としてちょうどいい。

だから、大学で「自分なりに分析して輪講に挑む」などというのは、過大なやり方になってしまう。大学の研究者や学者が勘違いしていることというほかない。あるいは自らの権威性の誇示でしかない。

学生は顧客なのだから、もっとちゃんと商売に徹してほしいところである。少子化の中で、今後の大学経営は容易ではない。学部生の学費は主要な収益源である。学者である前に、まずはビジネスマンとしての自覚をぜひもって顧客対応(学生指導)に臨んでいただきたい。「卒業を厳しくする」などというのは、御法度である。自らの授業指導のクオリティの低さを露呈することにしかつながらないはずである。

ふだんは羊でも、いざというとき狼になれる人がいればいい

個人主義・功利主義のような論調ばかりが目についたかもしれない。断っておくが、私は「全員が個人主義で合理的思考のできる個人になれ」とは思っていない。皆が狼になれるとは思っていない。ほとんどの人は羊であってもいいと思う。ただ、「皆が羊でいていい」とは思っていないだけである。

だからといって急成長ベンチャーをつくれということではない。「平時では羊であっていいけれど、非常時には狼になれる人」というのを養成しておくべきだ、というだけである。

いざというときに正確にリスクを見積り、グレーゾーンの中で取捨選択ができる人間がいないと困る。災害や感染症の場合にはすでにノウハウができているが、社会全体の行く末となると、どうにもしがたい。

「狼への変身」について、私の回答は「未来予測が少しでもできるようになること」なのである。そのための最短コースは、やはり経済史を学ぶということである。けれども、論文輪講やOJTのようなこともできない。さりとて、小学校スタイルのようにもできない。

どうすれば効果的に学べるのか? 私がnoteを書く動機、もしくは義務のような何か。

noteで他人様に講釈を垂れる権利があるわけではない。だが、何か義務のようなものがあると感じているだけである。「こうやったら未来予測のための経済史が効果的に学べるのか?」という問いは、まさに私が今後noteで向うべき課題そのものだ。

私は、せいぜい羊と狼の中間のキメラのような出来損ないにすぎない。だが、何かできることを見つけて、将来世代の持続可能性を少しだけ高めるようにしたい。親となった一個人として、切に感じていることである。

全員に強制しようとは思わない。ただ、いつか「狼になる」という気概のある人を、少しだけ助走をつけてあげようという程度である。以上が、私がnoteを書く動機である。

今後お届けする記事の形式と大まかな内容

「学び方」であるが、今後の記事では、以下の形式と内容を目指そうと考える。

  • 形式

    • 現代の時事問題との関係での「めあて」を提示する。とりわけ未来予測において重点化すべきリスク回避領域の特定。

    • レクチャーの末尾に「確認テスト」を提示する。

  • 主要な内容

    • 経済史の総論:経済史全体の体系的な理解を目指し、演繹的な整理。断片的な各論は、そのあとに取り組む。

    • 経済史の特論:具体的な経済実態の歴史を扱い、教訓を引き出す。とくに財政破綻、バブル崩壊、金融危機などのリスク管理に直結する分野。

  • 副次的な内容

    • AIと経済史:人工知能が経済史研究および未来の経済に及ぼす影響と限界(AIは歴史的文脈づけや、史料の信頼性の判断ができない)

    • アジア・アフリカ・中南米経済史:投資とサプライチェーンにおいて重要な新興国・途上国の近代化論と事件。

各記事だけですべてを網羅できるような「完全解説」には到底ならないかもしれない。ただ、断片化しがちな学問分野において、見通しを与えて、個別の分野をさらに調べるための道筋を各人が持てるようになる。あるいは高度なAIに専門用語で議論ができるようにはなるだろう。

経済史は歴史学である。ミクロ経済学やマクロ経済学のの過去事例における応用問題のことを指すわけではない、と私は考える(モデルによる量的分析を検証した論文はたくさん見かけるが)。読者に「金・神・血」以上の解像度をもたらすことができるよう、精進したい。

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