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女三人

数か月ほど前、父が亡くなった時、残された女三人はひとりも涙を流さなかった。他人が見ればなんという家族かと思われるに違いない。でも、一滴の涙も流れなかった。
思えば、最初に倒れてから15年近く経っていた。医療ミスから始まった病院への不信感、看護婦の悪行、父が二人三脚でやってきた従業員の裏切り、仕事関係の人や親戚までもが手の裏返しに去っていく姿、見たくもなかった"人“の見にくく汚いものが一気に押し寄せた。そんな日々でも救われたのは、必ず存在した幾人かの"人“の優しさがとても暖かく感じられたこと。
不安、怒り、憎しみ、悔しさに押しつぶされそうになっては、さあまた明日…と立ち上がる毎日。永い月日をかけて壊れていく父の体。
家族が家族を看るのは当たり前のこととは分かっていても、実際はそう心温まる話ではなく、家族ゆえの難しさが大いにある。つい、言わなくてもいいことも口にする。父も家族には甘える。うっぷんが堪り「殺してくれ!」ともとらない口調で叫ぶこともあった。
ケアマネージャーに勧められ、他人へお任せしてみたこともあった。高齢化社会へ向けて充実していることもあるのは事実だが、それは比較的元気だが自由が利かない老人の為のシステムに思えた。父の様に意識はあるが寝たきりで、誤飲による肺炎など多々不調を来す老人は、問題があってはならないとたらい回しにされるだけだった。その都度交わされる手続きは意外と面倒だ。運よく面倒見てもらえるようになっても、二、三日に一度は着替えを持って行ったり、大層な経過報告を受けなければならず、施設に通うことになる。時には「お熱が高いので…」とトンボ返りでその日のうちに返されることもあった。逆の立場なら分かる。問題が起こる前に手を打つのは間違いではない。だからもどかしい。家族の負担が減るようでいて、別の形での負担が戻ってくることに気づいて、結局自宅介護を選ぶことになるのだ。人手不足を解消する為か、自宅介護へ誘導するようなしくみがあるようにさえ思う。そしてやはり、本人も家族も自宅介護をする方が心身共に落ち着くというのが本音だ。ヘルパーさんや看護師、訪問医、パフォーマーの様に手際のよい入浴専門のヘルパーさん、リハビリ療法士…。助けてくれる人がたくさんいて有難い。しかし、落ち着くはずの自宅に毎日毎日他人がやってくることも実は非常に疲れてしまうのだ。どうすりゃいいん?どうにもならない。だから、何はなくとも健康でいることだ。それがどれだけ大切で有難いことか!
色々なことがありすぎて、色々な人たちを見せられすぎて、色々な感情が生まれては消えていった日々だった。
父を送った後、女三人は「お疲れ様」と、ハグを交わした。
雨の予報だった空はいつしか青く晴れていた。
女三人はそれぞれ黙って空を見上げた。
「お疲れ様」
すべての感情は「無」になった。
唯一他人の私の夫がその女三人の後ろ姿を見ていた。振り返ると慌てて涙を拭った。
「ありがとう」

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