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⓮瀬戸内寂聴さんのこと⑥バカップル?写真集をやりながら
短編全集の提案というのは、瀬戸内さんの予想外のものだったのだろう。
一瞬間をおいて「もちろん全集の方が嬉しいけれど、いまどき全集なんて買う人もいないわよね。どこの出版社も個人全集なんて商売にならないでしょ。……でも短編全集の提案、本当にありがとう。お受けします」と一気に話された。
そしてすぐに具体的な話になった。「そうそう、前にうちのスタッフが短編小説のリストを作ったのがあるから、それを元にするといいわ。探しておくからね。でも沢山あるわよ。それと中編ぐらいの長さのものも、昔は短編扱いだったから、なかなか本にしてもらえなくてね。だから短編といってもけっこう枚数のあるものが入っているわね」。
さらに僕が懸案にしていて提案がまだ出来なかった対談集の件も、快く承諾してくれ、もう少し対談をやって充実させましょうということになった。
この日、あえて言えば僕は瀬戸内寂聴担当編集者としての通行手形をもらったわけである。この日を境にして、短編全集や対談集の打合せなどで大手を振るって寂庵に出入りし、瀬戸内さんが上京した際にも、定宿のパレスホテルなどでしょっちゅう打ち合わせをし、酒食を共にする機会もがぜん増えていった。あっという間に、長年の担当者のような親しい関係になっていったのだ。
こういう“通行手形”は僕にとってはかなり重要で、というのも他人にあまり信用されないが、実は人見知りなのである。特段の用がなくても平気でズカズカ出入りするような図太さがないのだ。親しい相手であっても、用件という“通行手形”がないとどうも訪問しずらいのである。
さて、短編小説の話に戻る。瀬戸内さんの場合、短編小説といっても、後にもらったそのリストには、何と271作品もリストアップされていた!
「夏の終わり」などの代表作も多数入っていたが、全短編小説を網羅したらいったい何巻になるのか見当もつかない。僕としては全5巻~10巻ぐらいの規模を考えていたので、当然、著者による選集という形にならざるを得ないのだが、これだけの作品数となると、瀬戸内さん自身も「短編全集に入れる必要のない作品もたくさんあるからね」と言うし、ご本人が覚えていない作品や、売れっ子作家として書き飛ばした作品がかなりあるということだろう。結局、僕がまず全作品を読んで掲載候補作をセレクトし、そこから瀬戸内さんと検討するという進め方になった。かなり時間のかかる作業になる。
この95年の1月には直後に阪神大震災が起こり、3月には地下鉄サリン事件などがあった。瀬戸内さんも翌年刊行開始予定の源氏物語現代語訳にますます追い込まれて相当に多忙であったし、僕自身は、短編全集の企画という大仕事に奮い立つ気持ちで、まずは入手できる短編小説から読み始めたのだが、一方で、前年の10月から最初は4冊同時刊行でスタートした写真叢書フォト・ミュゼシリーズ(名作写真集の文庫版として企画)の隔月2冊づつの出版が続き、さらにこの時期に、篠山紀信さん撮影による『アンナ 愛の日記』という、梅宮アンナと羽賀研二という当時芸能マスコミやテレビのワイドショーを毎日のように賑わせていたカップルの“ペアヌード”写真集の担当者として、実は大変な目に遭っていたのである。
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今振り返ってみると、瀬戸内さんの純文学的な短編小説の全集をどのように編集していくかという形而上的な思考のなかで作品を読みながら、同時に、もっとも形而下的というか、“バカップル”と呼ばれていた二人の、世間の俗な関心事の大渦中にあったこの稀有な写真集にかかりきりになってもいたのだから、何か精神的に気ぜわしいというか、ドタバタな状況であった。
まったく異なる世界の出版に関わるというのは、ひょっとしたら編集者という仕事の醍醐味のひとつかもしれないけれど、僕が一本道を歩めない編集者になった萌芽が、このときにあったのかもしれない。
この当時、僕は芸能界について右も左も分からない状態で、そもそも昔から芸能界に興味をもったことがなかったし、特別誰かのファンになった経験もなかったのだが、実のところは、芸能界という華やかな世界は自分には無縁な、憧れようもない遠い別世界にしか思えなかったというのが正直なところだった。
ただ、たまたま大学時代の3年間、毎週、俳優の菅原文太さんの子供たちの家庭教師というか遊び相手というか、絵や工作や勉強の相手をしていた経験がある。その頃の菅原さんは映画「仁義なき戦い」シリーズの後の「トラック野郎」シリーズで一世を風靡していた時期で、ヤクザ映画のスターだっただけにお宅に出入りする付き人の若い俳優さんたちも見た目、ヤクザ風で、ちょっと特異なものを垣間見た気はするけれど、それでも、あくまで家庭の中のお付き合いだったし、知的な夫人が取り仕切る菅原家には“芸能人”という派手な雰囲気はほとんどなかっように思う。この菅原家の家庭教師というアルバイトは、僕の絵の先生だった吉仲太造さんの夫人がその昔菅原さんと役者仲間だった関係で、藝大生だった僕に来た話だった。その後も菅原さんや夫人には何かとお世話になるので、他のところで触れることになる。
ついでに、松田優作さんの最初の奥さんで作家の松田美智子さんが菅原さんの評伝を新潮社から出していて、その文庫本『飢餓俳優 菅原文太』が昨年(2024年)11月に出たところで、僕もこの評伝の取材を受けているので、是非ご覧ください。面白いです!
さて、この写真集『アンナ 愛の日記』を巡る大騒動については、別の形で詳しく書き残しておくつもりなので、乞うご期待。
瀬戸内さんの短編小説に話を戻すと、作品を読み始めてすぐに難題にぶつかった。
それは、瀬戸内さんの純文学作品の本質が私小説にあり、体験に根差したいくつかの重要なテーマが核になっているのだが、それを手練れの作家として、瀬戸内さんは実にさまざまに書き分けており、簡単に言えば、似た内容、テーマの作品がけっこうあるのだ。何篇も読んでいくうちに作品名と内容が記憶の中で混乱していき、このままではとても掲載候補作をセレクトしていくなど無理だと気づいたのである。このことは、僕に文芸編集者としての資質がないということを決定的に自覚させた体験だったが、どうここを乗り越えるか、根本からやり直さなければならないと思った。また単行本未収録の作品もあるので、全短編小説を僕の手元では入手できないという問題もあった。
結局、正攻法というか、作品の発表順に読んでいき、細かくメモをとりながら重要度を検討していかないとダメだなという結論になったのだが、そのためには、ほぼ全作品が所蔵されている瀬戸内さんのところで読む作業をするしかないということになったのである。