❿瀬戸内寂聴さんのこと。作家と担当編集者の関係。その2
作家にとって担当編集者というのは、どれだけ自分のために動いてくれるかに尽きると思う。が、その在り方は、男女関係に似て100組の男女に100通りの関係があるのと同じで、決まった形があるわけではない。
対等の立場で一緒に作品を練り上げる同志的関係もあれば、新人作家の場合だが、編集者が師匠のように指導していく関係もある。かと思えば、女性編集者が男性作家にプライベートも含めて、まるで女中のように尽くしている形を垣間見たこともある。
また大物作家に後から付く場合、傍から見ればおべっか遣いにしか見えなくても当事者がそれでよければいいので、「先生、先生」と、とにかく持ち上げて気に入られるようにしていくというのも当然ながらよくある。
その頃の瀬戸内さんの状況は、数年前からとりかかっていた念願の源氏物語現代語訳が、講談社からの刊行が決まり、訳業の追い込みにかかりきりという状態で、新作を書き下ろすような余裕はなかった。また一方で岩手県の天台寺住職として、「あおぞら説法」などのイベントには1万人を超える聴衆が集まるなど、法話や人生相談のジャンルでも大人気だったし、そうした関連本もよく売れていたようだ。初めて寂庵に伺った際に、瀬戸内さんから「私のそういう本も売れるのよ、でも新潮社は興味ないわね」と言われて、黙って頷くしかなかった。というか、新参担当者としてはどう答えていいのか、分からなかった。
とにかく多忙を極める瀬戸内さんとの関係を改善するには、何とか会う機会を増やすこと。つまり京都に出向く用事を作らなければならない。
ちょうどその頃、日動画廊で開かれた世界的彫刻家の流政之さんの個展パンフレットに瀬戸内さんが、二人がまだ彫刻家でも作家でもない若き日の京都で同じ職場にいたという奇縁について一文を寄せていて、これだっ!と思った。
あまり知られていなかったが、実は瀬戸内さんは流さんをはじめ、横尾忠則さんや荒川修作さんなどのアーティストたちと深く交流してきた歴史がある。僧侶と前衛的表現者がイメージ的に結びつきにくいけれど、近代の女性活動家の評伝を数多く手がけてきた瀬戸内さんの反権力的な姿勢はまさにアバンギャルドであり、前衛芸術家たちと響きあうものがあるのだろう。
そんなわけで、流さんとの対談を企画して古巣の『芸術新潮』に持ち込んで了解を取り、お二人に対談の依頼をして、快く引き受けてもらえた。
7月28日に京都は祇園丸山という料理屋で行なった対談は、サービス精神旺盛な瀬戸内さんの突っ込み鋭く、美術界随一のダンディで知られ、世界を股にかけて美女と浮名を流してきた流さんがたじたじとなりながらも、知られざる秘話が繰り広げられた。
京都で出会ってからその後、作家を目指して上京した瀬戸内さんは、前衛文学の旗手として評価されながらも売れない作家であった小田仁二郎氏と不倫関係の半同棲状態にあり、その瀬戸内さんの西荻窪の下宿に、流さんがよく遊びに来ていたという。
さらに小田氏が新潮社の斉藤十一さんに呼ばれて突然『週刊新潮』に時代小説を連載しろと注文されて、それで連載した小説が「流戒十郎うき世草子」であり、名前だけでなく、後にサムライアーティストとしてニューヨークで人気を得る流さんの風貌や生い立ちをモデルにしたのだという。流さんも小田氏のことが好きで、得意の武術の話などをよくしていたそうだから、純文学から突然、時代小説を書けという無理な注文に応じざるを得なかった小田氏の格好のモデルになったらしい。
そういえば、対談を行なった祇園丸山は『芸術新潮』にいた頃からちょこちょこ利用していた店で、対談の後の食事で、ちょうど夏の時期だったから鱧の湯引きが出た。その当時は、鱧料理は夏の京都の名物で、東京では滅多にお目にかかることがなかったからなのだけど、京都の料理屋で鱧が出ると必ず湯引きに梅肉ソースで食べるというのが定番。なんでいつも湯引きに梅肉なのか、もっと違う食べ方の方が美味しいのではなかろうかと、その時思ったのを妙に覚えている。
さて、対談は滞りなく面白い話で大いに盛り上がったのだが、食事を終えた後、瀬戸内さんはさっさと帰宅されてしまった。源氏の現代語訳が佳境にあって忙しい時期ではあったが、僕としては祇園のバーにでも流れて、もうすこし打ち解ける機会になればと思っていただけに、何とも肩透かしを食らった感じで、結局、流さんと、芸新の担当の浅利星司君の3人で流さん行きつけのバーに行って、その夜は終わった。流さんと美術界の話をいろいろできたのが収穫ではあったが……。
ちなみに流さんは、若い頃の美男子ぶりは伝説的で、瀬戸内さんより一歳下のこの時71歳だったが、背筋の伸びたその様子は本当に格好良く、古武士の風格を漂わせながら、誰にも優しかった。
この対談は1994年の『芸術新潮』9月号に、「瀬戸内寂聴+流政之 いい女いい男、ないしょないしょの恋談義」として掲載されたが、僕と瀬戸内さんとの関係は、少しは進展したかもしれないが、とても打ち解けるところまではいかなかった。
そしてその年の11月、京都の寂庵で、僕にとっては「事件」といっていい出来事が起きたのである。
下図は『芸術新潮』1994年9月号より 瀬戸内さんと流さんの対談。
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