「変な人」ってなんだよう〜!!!
自分は所謂「変な人」なんだと思う。
「語彙が面白いね」とか「独特な感性だね」と言ったなにか言いたげな「褒め言葉」を浴びて過ごしてきた。
しかし私は自分が「変な人」とは思っていない。「変なことを思いつく人」だと思っていて、それは「変な人」とイコールじゃないでしょ、と思っている。
でも、世間的には多分「変な人」も「変なことを思いつく人」もひっくるめて「変な人」と形容してるんだろうな。もしくはそんなことは考えていないのかも。
そもそも、「変」と「面白さ」はかなり近いところにある。「滑稽」という言葉は結構そういう部分を孕んでるんじゃない?
常識的なことをただ言うだけでは「面白くない」これは当然である。
※私が知ってる限りでは「あたりまえ体操」くらい。しかしこれも面白い(=変)の「お笑い」という世界で敢えて当たり前のことを言う「変さ」がウケている、メタ的で特殊な例。結局同じこと。
「あるあるネタ」もそうだけど、今言いたい「おもしろ」と種類が違う、あれは共感性を利用したおもしろだから。
話を戻そう。
常識的なことだけでは面白くない。つまり、「変」なことを言うことが「面白い」と考える。
私が日常的に「これ面白いかも」と思って「変なこと」を言う、そうすると「お前は変だ」と言われるのが不服だ。ダサい予防線を張ると、ウケてるかウケてないかは関係なく、どちらの場合でも定期的に言われる。自分をかわいがってくれる友人なら「変なの〜😂」というニュアンス、さして仲良くもない人間だと「変わってるね😅」という嘲笑、困惑のニュアンス。
しかしむずかしいことに、変で面白いこととそれを作り出した自分自身は切り離せない。
変なことを思いついて、誰かに伝えたかったら、当然ながら他でもない自分が変なことを発信しなくてはいけない。SNSという手口もあるけど、それは自分と離れた違う人格が独り歩きしてる状態ではなく、自分からうまれた人格がネットにあるかリアルにあるかの違いだけだから。どうせそのSNSのアカウントは「変」という評価を受けるのだ。
「発した言葉がその人の人格をつくっている」とはよく言ったもので、この世界はそうできているらしい。
イカれた漫画を書く作者は、本当にその作者自身がイカれているかはわからないのに、「イカれている」と評価される。twitterでよく見る光景だ。逆もしかり、穏やかな作品をつくる人が、本当に穏やかかなんて定かではないのに。
これ書いてて思ったけど、普通の人は会話の中で生まれる面白みは漫画や小説のような作品やコンテンツだと捉えてないし、それが正しいのかもしれない。自分は会話の中のおもしろを作品やコンテンツだと思っているから、人に「変」と指摘されるほど力をいれて作り込んでいるのかもしれない。
あとテレビの「JKの流行語ランキング」とか見てなんかイヤな気持ちになる現象の原因が、最近わかった。ちなみに関係ない話じゃなくてちゃんと「変」の話だ。
ちょっと前までJKであった私はこれを見てイヤだな〜と思っていた。ランキングに入っている言葉は確かにクラスで流行ってるな、と思うし、間違いないのだ。しかし「若者がこんなヘンテコな言葉を使っているのね」みたいな評価を受けると、ウ~ン、そうだけど、そうじゃないんだよな〜と思っていた。
これもさっきの話と同じで、「ヘンテコな言葉」(ここで言う流行語)と「変なことを言った人」と「変な人」は繋がらないのに、まるで流行語を言う人が「変だ」と言われるのに違和感を感じるのだ。
もっと言うなら、普段変な人に思われそうで言えない面白いことを、「流行っているから」という免罪符をもってして、その言葉をみんなが使うから「流行語」になるという一面もある。
もちろん俯瞰的に見たら流行語は「変」であるし、世間が「変」というのも当然である。その言葉が「変」であること対してはJK達は自覚的で、だからこそ面白がって使うのである。
こうやって、「変な人」と言われたことに対する反論を真剣に書くから、「変な人」呼ばわりされるんだろうね。
「変な人」と言われたことのある「変わり者」の皆さんはこの文章を相手に送り付けたらどうかな。