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子育てのガラパゴス・日本でどう育てるか

子どもを「企業の兵士」に育てたいかどうか

戦後の公教育は、企業で働ける基礎学力を鍛えることが中心に行われ、企業に就職すると終身雇用される道が一般的でした。そのためには、「企業兵士」とまで言われるように、会社の中の一つの歯車として仕事をし、その働きぶりは欧米からはジャパニーズ・アニマルとまで揶揄されました。しかしこれからは、一つの企業に終身雇用されることは、望めなくなります。何度も仕事を変え、また午前と午後で別な仕事をすることもますます普通のことになってゆくでしょう。企業兵士になりたくとも、その様なことがありえない時代に向かっているのです。日本経済団体連合会中西宏明会長は、2018年10月9日就職ルールを廃止すると正式に発表し、さらに2019年4月22日会長が「正直言って、経済界は終身雇用なんてもう守れないと思っているんです」と発言しています。日本の中でも、ここまで具体的なレベルで変化がもう始まっています。コロナ禍の劇的な環境の変化に追われ、こうした雇用や教育の抜本的方針転換に目を向ける機会が減っていますが、このような変化は今後も止むことはありませんし、むしろWithコロナ、ポストコロナの時代に急速に進むでしょう。今こそ親のビジョンを広げることが大切です。


インターナショナルスクールに入学させればインターナショナルな人物になるという誤解

オルタナティブな教育方法として日本の親が考える典型的な例は、インターナショナルスクールに送ることではないでしょうか。長男は、ニューヨークで生まれ、帰国した時に、英語の環境に慣れていたため、日本語もいわゆる外人日本語の様に、アクセント、抑揚がついた話し方でした。そのため公園で遊んでいても他の子どもに突然突き飛ばされることもありました。なぜそんなことをするの、と、その子どもたちに聞くと、「変だから」という答えです。ショックを受けました。英語を話すことが良いことではない、ということが潜在的に残らない様に、まずインターナショナル・プレナーサリースクールに通うことにし、その後日本のモンテッソーリ教室にも通い、両方に半分ずつ送っていた時期があります。

日本語の環境で育てるか、インターナショナルスクールで育てるかは、大きな決定事項でした。それを決めるために、東京のインターナショナルスクール全てを訪ね、説明会に参加し、知り合いの卒業生にも話を聞きました。日本の2年保育の幼稚園に入園する時期には、どちらに送るか決定しなければならなかったからです。日本の教育か、インターか、親にとっても子供にとっても大きく将来を左右する決定をする前に、一度息子を連れてアメリカをアメリカを回りました。ボストン、コロラド、ニューヨーク、ロスアンゼルスと東海岸、中西部、西海岸を横断して文化の異なるアメリカの地域めぐり、子育てや家庭環境をつくるのにはどこがベストなのか考えていました。生まれ故郷のニューヨークに戻ったとき、息子は、「僕は、もうここにいるからパパ荷物を東京から取ってきて。」と話し、さらに旅の終わりでは、「僕が注文するから、ママは黙っていて。僕はアメリカン・ボーイで英語を話すけど、ママは日本人で日本語英語だから。」と言い放ったことは衝撃的でした。これを聞いた時に、決断ができました。この子をこのままインターナショナルスクールに送ったら二度と、日本をベースにする社会に戻ることがないと思い、日本の幼稚園に入園することにしました。英語から距離を取るために、フランス語が第一外国語である学園に送ることにしました。日本のアイデンティティを持っていることが、国際人になっていく上で、欠かせないことと思います。自国の文化や社会状況を理解し知ることは、インターナショナルに活動する基本となります。例えば、アメリカの一流と言われている大学、ハーバードなどでは、学校の成績が優秀なのは当たり前となっていて、その中でどのように多様な人材を集めるかが課題とされ、個性的な活動や多様な文化背景が、注視されます。また、小さなリベラルアーツ・カレッジにおいても多様性は重要視されています。どんな願書にも、「あなたはどのようにカレッジのコミュニティに貢献できるか。」という質問項目があります。これに対して、自分の文化的背景や自国の社会状況を伝えることができることはベースになるポイントとなってくるのです。

グローバルな時代にインターナショナルスクールに子どもを送れば、英語が自然に話せて、国際的に活躍できるのではないか、と考える親御さんもいると思います。しかし、インターナショナルスクールでは、日本人の両親の子どもを預かることを躊躇する点がある様です。両親があまり英語を話せない場合、特にお母さんが英語を話せない場合は、小学校の低学年から中学年に上がる頃に、難しい状況が起こることが多々ある様です。幼稚園では、それほどまでに言葉だけが優先されるコミュにケーションではないので、問題が明らかにならないのですが、低学年から中学年において、日常生活で自然に聞いている英語の量が少ないので、子どもの言語能力の発展に遅れが見えてきます。そのために様々な教科がわかりにくくなってしまうのです。海外赴任をしていた家族が帰国してインターナショナル・スクールに入学させても、お母さんが英語をあまり話せない場合は、かなり子どもに支障がある様です。自分が英語を教えられないからインターナショナルスクールに送れば、英語を自然に学べるからと思う方も多い様ですが、言葉は日常生活に密接しています。アイデンティティをどの様に形成していくかも含めて安易には、決定できないのです。インターナショナルスクールで仕事をしている日本人の先生と話していても、そのような相談をよく受けると聞きます。また、日本語と英語のバイリンガルで教育しているインターナショナルスクールの先生も、9歳から10歳の頃に、子どもたちは英語か日本語のどちらで物事を優先して考えるかを決めるようになっていくと言います。その時、子どもたちはそれなりに苦労するそうです。

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インターナショナルな場にいるとで、アイデンティティが問われることが多々あります。それが国籍だけによって確立されるものではありませんが、自分の故郷や自国というアイデンティティの確立が複雑ゆえに難しく、苦しんでしまう子もいます。たとえば幼児期から日本のインターナショナルスクールに通い、その先欧米の学校、さらに大学に入学しても、アメリカには芯から馴染めず、それに比べて日本がより馴染み安く感じて帰ってきたいと思い、日本に戻ってもインターナショナルスクール時代の友達は移動が多く、他国に移っていて日本にはほとんど留まっておらず、寂しい思いをするケースも見かけます。日本語も十分でないために、色々な意味で宙ぶらりんのような状態になってしまうこともあるのです。これも定義によりますが、バイリンガルではなく、日本語も英語もどちらの言語も十分に深く思考することができない、母語のない状態、いわゆる「ハーフリンガル」に陥ってしまったと友人に告白されたこともあります。

英語は現在世界の標準語として使われていますが、かつてはラテン語がその地位に君臨していました。しかし第二言語としてのラテン語文化圏は様々な知識の集積に貢献したものの、それ以上のさらに一歩深い知識の進展にはなかなか至らなかったと考える学者もいます。聖典の母語翻訳が始まった時代を皮切りに、土着の言語や母語で人々が思考し、表現することが広まり、そこから、ドイツやイギリスなどではより深い感覚に根ざした創造的な議論が展開されていきました。もちろん世界標準語の蓄えている知識の量は膨大です。そこにアクセスがあることで学べることは多くありますが、自分たちのもつ感性に根ざした言語を用いて思考することでしか開いていかない、発見できない境地や発明もまたあるのです。


英語は「最低限のツール」でしかない:世界で英語を話す人の80パーセント以上が英語は第二言語

たしかにグローバルな環境をベースにして世界が動く中で、現在では多くの国々の人々とコミュニケーションを取るのは、英語がベースです。英語を十分に使いこなすことにまだまだ高いハードルを感じられる人が多いと思います。言葉はそれぞれの文化を背景に発展しています。使いこなすには、経験を踏まえて、それぞれのコンテクストの上で読み取り、話すことが必要です。しかし、今は英語が使えることは、インターナショナルになっていくことの最低限のツールでしかありません。ここで留意しておきたいことは、英国標準英語と呼ばれる正しい発音をネイティブで話せる英語話者は英語話者の総人口のたった3パーセントしかいないということです。世界で英語を話す人の80パーセント以上が英語を第二言語として話しています。イギリス・アメリカ英語ではなく、こうした国際英語が英語のスタンダードとなりつつあるのです。様々な国や文化背景の人々がもつアクセントや表現方法も、アクセントの強い下手な英語ではなく、それぞれの持つアイデンティティーとして見直され始めています。英語を完璧にマスターしなければならない学問的な前提条件として捉えるのではなく、コミュニケーションあるいは研究などのツールとして捉え直すことが大切です。


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