楽園瞑想〜母なるものを求めて(5)
石垣島のオバアと大自然が、都会育ちの孤独な私にくれた、たくさんの贈り物…。
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島では、日没と日の出が見える。
白いリーフに囲まれて、どこまでも広がる海。高くて大きい空。風は大地を吹き渡っている。
自然はあんなに真っ正直だ。
サトウキビはさらさらと風に揺れる。さわふじは闇夜の中で人知れず甘い香を漂わす。満にサンゴは産卵する。蝶は群れをなして海を渡る。波はときどき高くなり、サメはときどき人を噛む。
私も彼らと同じ生き物だ。
南の島にいると、都会では見えていなかったものが見えてくる。全体像が見えてくる。
私は世の中に生きていると共に、大自然に生きる花でもある、ということ。そして、変化してやまない社会的属性ではなく、不変なる本質に自分を結びつけなさい、ということ。
それは本当の自分を思い出す、ということでもある。私は全ての創造物と一つである、ということ。
私は風。私は海。私は大地。私は生き物。同じ生き物。
私は逆らい過ぎている。オバアのようであるべきだ。あの幸せなオバア。海のような、大地のようなオバア。
私は、これまでに手に入れたものを、いったん手放してみる。都会の生活を。モノを。情報を。それがなければ私じゃない、と固く信じてきたコトやモノたち。
それは私を満足させると同時に、幾重もの層になって私の上に覆いかぶさり、私を苦しくさせてきた。
最小限のモノだけ残して、あとは全部、手放してみる。テレビもパソコンも思い切りよく棄ててみる。何も知らない人になってみる。
モノが無くても困らない。知らないことで不安にならない。
私は、南の島に都会の憂愁を吸い取らせて、ただ水のようになる。泉から湧き上がってきた時は、純粋をもっていた水。
けれど、都会が追いかけてくる。元の仕事仲間からの電話である。
君は南の島で何をしているんだ?私は言う。何もしていない。
以前の私だったら、何もしていない罪悪感から返信をすることすらできなかっただろう。何もしていない、とたじろぎもせず言う。友達は驚いて言う。仕事したほうがいいよ。君は写真が好きだからフィルムライブラリーを作ったら?やり方を教えてあげるからさ。私は言う。今は、仕事しない。
こんな電話は決まって男からである。彼らはまず、どこにいるの?と聞く。次は、何をしているの?とくる。男は何かを成さなければ生きられない生き物なんだと思う。
電話してくる女たちは、そんな事はまったく聞かない。何をしているか、ということは問題にしていない。身体がここに在ればいい、と深いところで確信しているようなところがある。
都会から追いかけてくる男の電話の声を聞きながら、思い出している。
ぎっしりスケジュールを書き込んだ手帳。朝七時発の特急に乗らないと間に合わないと、大急ぎで駅の長い階段を駆け上がっていた日々。テレビ数台が各局の番組を同時に放送し、通信社からのニュース原稿が流れてくる編集室。そこで書いた原稿。
その時は、仕事していなければ私じゃない、と思っていた。けれど、それは違うのだ。
確かに、仕事は私のワンパートである。けれど、私の本質は別にある。
例えば、自分のことを水のようだと思う。器の形に合わせて変幻自在に姿形を変えながら、しかも、その本質は変わらない水。
だから、仕事をしていても、仕事をしていなくても、あるいは何かしていても、何もしてなくても、私の価値は変わらない。
私は、いつか仕事を始めるだろう。今度は、やり過ぎることはないだろう。
このあと私は、オバアの家を出て、一人暮らしを始めた。
(続く)