生活をサボるな。とインド人に叱られた私が、世界一周を経て出した答え
「2019年を飾るnote20選」の1つに選んでいただいた、こちらの記事を書いてからもう少しで一年が経つ。
ワーカホリック。
炊事・洗濯・家事、面倒なことは全て外注したらいいと思っていた。
そんな私が、インド人のおじさんに「生活をサボるな」と叱られて「人生は仕事だけじゃない。生活にも目を向けて、ちゃんと自分の時間を生きたい」と思った。という話。
あのnoteを書いたのはちょうど去年の八月だったのだが、それからずっと考えていた。
生活をサボらないために、具体的に何をすべきか?
「これからの暮らし」をどうしていこう?
ずっと考え続けて出た答えは「私には丁寧な暮らしなんてできない...」だった。
東京に帰ったら、また生活をサボってしまう
「生活をサボるな」のnoteを書いた後、私は再び日本を旅立ち、世界一周を再開していた。
「東京以外の暮らしを知りたい」
だから、観光地をたくさん巡るのではなく、一つの場所に長めに滞在し、その土地の生活を感じてみる「ライフスタイルの試着」のような旅を選んだ。
キッチン付きのゲストハウスやAirbnbに泊まり、その土地の人と同じように、普通のマーケットやスーパーで買い物をしてご飯を作る。そんな日々を繰り返した。
東京では触れられないような、大自然の中に身を置いたり、アマゾンの奥地に一週間籠ってみたりもした。
そんな毎日を送りつつも、「東京に帰ったら、私はまた生活をサボるだろうなあ」と若干冷めた気持ちもあった。
旅が、東京と、東京以外の暮らしの絶望的な違いを、改めて教えてくれたからだ。
都市は、いろんなものを忘れさせる
都市は便利だ。だが、複雑に発達しているが故に、何かに支えられて生活が成り立っていることが見えづらい。
都会で仕事をバリバリしていると、なんだか自分はちゃんと自立しているような気がしてくる。けれど、実は見えない誰かや何かに支えられて、私たちは生かされている。
あの時インドで言われた、この言葉。
最初は、いわゆる「丁寧な暮らし」をしなさいよ、という意味だと捉えていた。
しかし、次第に、単に「生活を整えなさい」という意味以上に「自分が頼っている存在を知ること」を教えてくれていたのだと気づいた。
なんでもアウトソースせずに、自分でやってみることや、一つ一つマインドフルであることは、今まで目に見えなかった自分が頼っている存在を浮き彫りにする。
例えば、自炊をしてみてはじめて「ご飯作るのってこんな大変なの!今までどんだけ外食に頼ってたんだろう!」と気づくように。
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と、ここまでは去年noteを書いた時にも分かっていたのだが。
旅をする中で、私は、もっとも今までの人生で無視してきた、でも実は自分が圧倒的に依存していたものに気づいた。
それは「自然」だった。
どういうことかというと。私たちが食べるご飯は、コンビニで買うものだろうとなんだろうと、それは工場から生まれるのではなく、元をたどれば自然から生まれるということだ。
旅の中の様々な体験が私にそう感じさせたのだが、中でも忘れられないエピソードがある。
ニュージーランドで鶏の卵を毎朝拾って食べていたことだ。
放飼いの鶏は、お行儀よく決まった場所に卵を産んでくれるわけではない。そのため家の周りのあちらこちらに卵が散乱しているのだ。
それらを朝の散歩ついでに宝探しのように拾い集めていただく。
透明のパッケージに入った10個入りの卵しか知らなかった私は、卵が地べたにそっと置かれている光景を最初は「不自然」に感じた。
でも本当は、こっちが「自然」なのだ。どうやら私はそんなことも知らないまま、大人になってしまったらしい。
その卵は黄身がギュッと詰まっていて美味しかったし、やはり目の前に鶏が歩いていると「ありがとうよ...」と思わずにはいられなかったし、鶏が自由に歩き回る豊かな自然にも愛着が沸いた。
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さて、東京に住んでいて、卵を食べる時に鶏に想いを馳せる瞬間はあるだろうか?
ない。99%、ないと思う。
鶏は少し極端な例だったかもしれない。
でも、東京は、都市は、なんでもそうなのだ。それがどこから来たのか?誰が作ったのか?全然分からない。そういう仕組みなのだ。
例えば、コンビニでホットコーヒーを買うこと。
これを「一つ一つマインドフル」に考えてみると、最適化された、たった数十秒の出来事の裏に、抽出機械の製造業者、運送業者、輸入業者、機械を動かすエネルギー、豆の生産者、豆が育つ自然環境etc...と、大きな経済のめぐりが存在している。
その循環の輪の中に、私たちはいる。
コーヒーだけではなく、私たちの身の回りにある全てのものが、実は物語を持っている。どこから来たのか、どんな人たちが関わっていて、背景には何があるのか。
そこにどんな物語があるのかを知り、その上で自分が応援したい物語を選べたら、とても豊かなことじゃないだろうか。
私の所作が、態度が、何を選び、何を消費するのかが、自分の健やかさだけでなく、周りの豊かさにも繋がっている。
だから、自分だけでなく、周りも豊かにする選択肢をできるだけ選ぶこと。それが、本当の「丁寧な暮らし」なのかもしれない。
これが、インド人に「生活をサボるな!」と叱られてから3年、世界中を旅してようやく腹落ちした、私の大切な学びだ。
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--しかし、だからこそ私は「東京で丁寧な暮らしは無理かも」と思ってしまったのだった。
だって、東京は忙しいし、便利だ。いちいちコーヒーを一杯飲むのに豆の生産者や、さらに自然環境まで気にかける必要もなければ、余裕もない。
「丁寧な暮らし」は、余裕がある人しか出来ないのだろうか?
田舎で自給自足しないと、無理なんだろうか?
今、ここで、何かを変えることはできないのだろうか?
何度も、何度も、気づく瞬間があればいい。
一人で出来ないなら、みんなでやればいい。
今、ここで、何かを変えることは、できる。
そう思わせてくれた友人がいる。
彼女は、食を通して心身の健康を養う「食養生」の考え方を、料理教室や保育園の給食メニューの開発などを通して伝える料理家だった。
生産者との繋がりも濃く、野菜の作り手から直接聞いた話をよく私にも伝えてくれた。
それは、まさに「物語を知る」ということ。知った上で、選び、美味しい料理を作り、さらに心身を健康に保とうとする姿勢は、これまでの私にはないもので、これからの私がやりたいことだった。
ズボラで流されやすい私は、東京で何の意思もなく働きだしたら間違いなく仕事主義に戻り、季節が巡ってくることも忘れてしまうに違いない。
だから、彼女と一緒に、暮らしに対する気づきを積み重ねられるような環境を作ることに決めた。
誰よりも、私自身が生活をサボらないために。
例えば、食の生産者と直接つながり、話を聞いたり質問したりできる環境。そして、彼らと一緒に共同で畑を持つ。できた野菜はみんなでシェアする。旬の野菜の食べ方を学ぶ。自分で料理してみる。生ゴミをコンポストにして、土に戻す。そのほか暮らしに役立つ知恵を共有したり、おすそ分けしあったり…
一緒に住んでいるわけじゃないけれど、そんなオンラインご近所さんのような、生活共同体を作れないか?今は、そんな取り組みを始めてみている。
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忙しくて、他人のことを気にかけられない時も、生活が雑になってしまう時も、あるよ。
でも、また戻ってこれる場所があればいい。
何度忘れてしまっても「生活って大事かもな」と思い出せる瞬間が、毎日外食でも、月に一度くらい料理してみようかなと思えるような瞬間が、自分の買い物がひょっとすると誰かを助けたり、誰かの犠牲の上に成り立っているのかもしれないと、一歩立ち止まる瞬間が、ほんのちょっとでも生まれたら。
そのほんのちょっとが折り重なった先に、見せかけやファッションではない、本当の「丁寧な暮らし」はあるかもしれない。
そんな、何度でも気づける場所を、本当の豊かさをみんなで手探りできる場所を、少しずつでも良いからつくりたい。
これが、「生活をサボるな」と叱ってくれたおじさんへの、私の一つ目の答えだ。
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