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【短編小説】「白い金魚」

〘 あらすじ 〙

 主人公晃一は、交通事故で死んだ彼女の安英が忘れられず、彼女の置いていった金魚に彼女の幻影を見るような毎日を過ごしている。
 ある日、通っていたスポーツジムで、安英に雰囲気のよく似た女性と出会う。一言二言話すうちに、晃一は彼女に惹かれ、元気を取り戻してゆく。
 女性がプールにいるときはいつも周囲に人がいなくなる、プールに入ってくる姿や出ていく姿を見たことがないなど、女性には不思議な点があった。 
 デートに誘っても断られるが、晃一は意を決して女性に告白する。そして安英の形見である金魚を安英との決別のために捨てる。

〘 本編 〙
 
・・・明日は2時半に駅前のバスターミナルだよな。この前みたいに水着、忘れるなよ。
・・・大丈夫、もう用意してあるよ。じゃあ、明日ね。
・・・また明日。


「ぅうわあぁっ。」
 叫んだ自分の声で目を覚ました。そこが自分の住むマンションの部屋だとわかるまで数分かかった。荒い息をつきながら上半身を起こすと、体の汗がゆっくりと冷えていくのを感じた。両の手で顔を覆い、もうやめてくれと低くつぶやく。誰か俺を殺してくれと。
 窓を真っ白い遮光カーテンが覆っているため、今が朝なのか夜なのかわからない。それは時計の針さえ知らない。苦痛に顔を歪める晃一の背後に、無音の闇が迫り来る。
「安英、どうして俺を・・・おいていったんだ。」
 笑顔で別れた。夕焼けが眩しかった。彼女をとても、愛していた。明日また会えると信じて疑わなかった。
 頭が割れるように痛んだ。ベッドを下りて、水を飲むためにキッチンへ向かった。リビングを横切る時に、窓際のミニテーブルに置いてある小さな水槽が目に入った。その中には、ゆるりと泳ぐ赤い金魚が一匹。彼女の残したたった1つの忘れ形見で最後の贈り物。でも、その赤は鮮やかすぎた。晃一の部屋は真っ白にペイントされていた。壁も床も天井も窓枠もテーブルもベッドもバスルームも何もかも。
 彼女はカラフルなものが好きだった。この部屋、殺風景だからあげるわ。と言って飼育している中の一匹を水槽ごと持ってきた。彼女がいなくなってから部屋を全て塗り替えた。色が怖かった。赤に似た色が怖かった。横断歩道を真っ赤に染めた安英の血を見てからだ。

 大学からの帰り道/自転車の群れ/落ちていく大きな夕日/家路を急ぐ背広の背中/騒がしいスーパーのビニール袋/秋の匂い

 その光景の中から、彼女だけが姿を消した。

 あとには溢れ出た臓物、奇妙に折れ曲がった腕、飛び出した眼球、転がったサンダル、ひしゃげたバッグだけが残された。全てが悪夢のように赤かった。目を閉じることも叫び声を上げることもできずに、ただ立ち尽くした。
 それから、晃一の目には季節さえ映らなくなった。奇妙に歪んだモノクロの街が、古い映画のようにカタカタと回り続けているだけ。
 音も光もなくなったこの世界で、ひからびた喉から声を出すのもあきらめたのに、朝は毎日、孤独だけを連れてやってくる。希望も勇気もどこかに忘れてしまった。彼女を失ったあの日から。
 しかし、絶望は安らぎを生み出すことを晃一は知った。望みも欲も失くしてしまえば、そこにはただ、静かで安らかな世界が広がっていた。
 キッチンテーブルの上から果物ナイフを取り上げた。あの時は死ねなかった。手首にナイフを押し付け血管の上をなぞると、不思議な冷たさが体を駆け上ってきた。もっと早くこうするべきだった。
 しかし、けたたましい電話の音がその静寂を破ってしまうと、もうそれはできなかった。晃一は瞳を伏せて受話器を取った。
「もしもし。わかるか?俺、優やけど、晃一?」
「優か・・・。」
「起きとったんか?」
「ああ、さっき。」
「なあ、明日休みやろ?どっか行こ。釣りとかどうや。」
「いい、遠慮しとく。」
「辛気臭い声出さんといてや。お前、あんなあ、その調子やとまだ安英のこと気にしとるんやろ。あれから2年やで、2年。専門学校やったらとっくに卒業しとるわ。その間CDデビューだってできとるわ。しっかりしてえな。安英かて死にたくて死んだんとちゃうんやで。」
「優、」
「・・・ごめん。でもな、もうええやろ。」
「わかってる。」
「わかってへん。」
「わかってるよ・・・。」
 そう言って晃一は窓の外に目を移した。最上階のマンションからは、重く厚ぼったい雲の群れと、寂しい摩天楼が見えた。
「わかってへん。お前が自殺未遂しょった時のこと、さっき不意に思い出したんや。また死のうなんて考えてへんよな?そんなんされたら俺、どないしたらええねん。」
 優の口調が険しくなった。晃一は冷たい受話器を色のない目で見つめた。
「お前はほんまに何もわかってへん。何もや。あの金魚、まだ飼ってんのか?晃一、捨てろ。今すぐ捨ててまえ。」
 砂に水が吸い込まれていくように、誰もいない、晃一さえいない部屋の中に、優の声は空しく響いた。
「聞いてんのか晃一。俺はなあ、硬い殻に閉じこもって膝抱えて泣いとるお前なんか見とうないねん。あの頃に戻ってくれよ。競泳で世界目指しとったお前に。」
「優、」
 もう思い出したくない、と言おうとしてやめた。思考が不意に巻き戻ってしまいそうになったからだ。
「晃一、死のうなんて考えんなよ。いいな、絶対やからな。」
 乱暴な音をたてて電話が切れた。泣く前に話を途中で切る優の癖。目を閉じていても、その表情が浮かんでくる。
 受話器を置き、ソファに沈み込んだ。体は冷え切っていて、寒さも痛さも感じない。何も感じないんだ。思い出すのは、黒い喪服の群と線香の胸の詰まるような匂い。
 晃一は立ち上がって水槽に手をかけた。どうしても捨てられなかった。愛着でも罪悪感でもない。金魚は何も知らずに泳いでいる。それ故に、何て罪深い生き物だろう?
 水の中に手を差し入れると、藻草がゆらりと揺れた。金魚を掴もうと腕を伸ばすと、赤い金魚はその手をするりとすり抜けた。指先のぬるりとした感触に、思わず手を引いた。血に染められた安英の手を掴んだ時と同じだ。やっぱり無理だ。俺にはできそうにない。

「あ・・・社長の息子、また遅刻してきてる。」
「今何時だと思ってんのかしら。いい気なもんよね。」
「誰も言えないってわかってるからよ。」
「見てるだけでムカつく」
「しっ聞こえる。」
 せわしく人の行き来する、大理石のロビーにかかった大きな時計は、もうすぐ昼休みを告げようとしている。晃一はグレーのスーツでその無残な視線を横切った。
 何もかもどうでもいいことだった。毎日会社に来て、時計を眺めながら1日を過ごす。朝になれば目を開けて夜になれば目を閉じる。それと一緒だ。繰り返しの毎日。グレイの空。静かな静かな世界。
 帰りの電車でさえ、行きのそれとの区別はつかない。晃一は空いていてもイスには座らない。スーツの袖を眺めて、その揺れ具合を確かめる。車窓に映えるオレンジを深く吸い込んで、1番嫌いな時刻をまるで罰を受ける子どものようにやり過ごす。
 
 瞼の裏で泳ぐ一匹の金魚。何も、何も知らずに。

 晃一は、毎週金曜日の夜に会員制のスポーツクラブに通う。たくさんのトレーニングマシンではなく、プールに入るためだけに。
 いつもなら晃一の入る時間帯には少なくとも5、6人の常連がいるのに、今日に限って先客はたったの1人だった。珍しいなと思っていると、その先客は音のない足取りで飛び込み台に乗り、しなやかに水の中に吸い込まれた。晃一は呆然とその光景を見つめた。
 50メートルを折り返して泳ぎきった彼女が、飛び込み台の横に手をついて水から顔を上げ、プールサイドに突っ立ったままの晃一と目を合わせた、その刹那。
 思考が一瞬停止し、目の前の白い水着の女性と安英とのピントが、ゆらゆらと合わさるのを見た。そんなはずはない、と頭のどこかで警告ランプが点滅した。
 晃一が言葉を考えあぐねている間に、彼女はまた泳ぎだした。薄いブルーに、彼女の水着はよく映えた。
 似ている、けれど違う。晃一はつぶやいた。安英は彼女より髪の毛が短かったし染髪していた。背ももっと高かった。体格だって顔つきだって随分違う。それに、唇はあんなに赤くなかった。白い水着だって持っていなかった。
 彼女は安英じゃない。そんなわけはない。急にライトが眩しくなった気がして、晃一はロッカールームへ引き返した。混乱した頭のまま着て来た服に着替えてしまうと、何のために来たんだ、水にさえ入らずに。と自嘲の笑みがこぼれた。乾いた笑いだった。
 自分は弱者だ。消えてしまった人の幻影を見て、それにさえ背を向ける。なぜ、思い出はこんなにも俺を苦しめるのだろう。彼女は安英じゃない。雰囲気は似ていてもきっと違う。違っていてくれ。
 プールを出る時、晃一は一度だけ後ろを振り返った。彼女の姿は消えていた。水面は少しも揺れてはいなかった。まるで、ガラスの箱のようだった。

・  ・・安英、そっちへ行ってはだめだ。
・・・どうして?何を言っているの?
・・・どうしても、だめなんだ。
・・・横断歩道を渡らないと駅へ行けないわ。私、急いでいるのよ。じゃ、明日ね。
・・・行くな安英、やめろ、

「安英、」
 布団を跳ね上げ手を伸ばすと、晃一の指は虚空をさまよった。眉をしかめて大きく深呼吸し、息が落ち着くのを待った。夢だとわかっているのに、冷たい水が頬を伝った。これはなんだ?涙は枯れたはずじゃなかったのか?
 白いベッドの上、いつもの朝、いつもの灰色の朝。
 晃一はバスローブのまま小さなベランダへ出た。東京特有の薄曇りの空の下に、高層ビル群がレゴブロックのように重なり合って置かれている。遠い遠い世界。
 晃一は手すりを掴んで身を乗り出した。冷たい風が髪を強く揺らした。安英のいる世界は、ここからどのくらい離れているのだろう?目がくらみそうだ。
 晃一は許しを請うように、ゆっくりとその手を空へ差し出した。
「おい・・・晃一、何してんねんワレ、やめろ、」
 聞き覚えのある声と同時に、体が激しい力で引き寄せられ、世界が回転した。そして熱い衝撃が背に走った。首がコンクリートに触れ、その冷たさに目を上げると、視界は優の体で遮られていた。優の両目から落ちた水が、晃一の冷え切った頬を温かく濡らした。
「何、しようとしてたんや、お前。」
 声が震えていた。晃一は黙って優の顔を見つめた。その、澄んだ子犬のような目を。
「お前、俺が来なかったら何するつもりやったんや。答えろ。お前が死んだってな、安英は喜ばへん。生きてたらぎょうさんええことあんねんで。辛かったら俺に言えや。いつだって聞いてやる。いつだって・・・、」
 優の声が涙で詰まる。晃一は腕を伸ばして、その濡れた頬に触れた。
 どうしてそんなに優しいんだ?どうして俺なんかのために泣けるんだ?
「何で、こんなこと・・・、」
 言いながら、優は俺の体を抱きしめた。気が遠くなるほどの安堵を感じた。優の肩越しに、灰色の空がうっすらと開け始めているのが見えた。
「そういう趣味はない。」
「俺かてないわ。アホ、ボケ。」
 鼻の詰まった声がおかしくて笑った。はだけた胸に優の体温が温かかった。
「言っとくけど、無駄やからな。俺が何度だって邪魔してやる。」
「生きていくのは苦しいんだ。呼吸がうまくできない。」
「陸にあがった魚みたいなこと言うな。お前が死んだら俺も死んでやるから覚悟しとけ。」
「嘘、言うな。」
 風の音、柔らかな日差し、外界のざわめく音。射してきた光が、優の体に雪のように降り積もっていく。
「嘘やない。いいか、ちゃんと頭に入れておけよ。」
「今日は・・・土曜日?」
「そうや、お前会社休みやろ?ちゃんと会社は行ってんのか?」
「まあ。」
「何がまあやねん。しっかりやらんと、オヤジさんの会社やろ?陰口叩かれんで。」
「もう叩かれてる。しかも陰じゃなく。」
「ホンマかいな。お前、ボケーっとしとるからやで。ビシっといかんと、ビシっと。それにな、玄関の鍵が開けっ放しやったで。物騒やなあ。」
「あー・・・昨日プールから帰ってきてそのまま玄関で寝たから。」
「はあ?着替えとるやん。」
「1回起きて風呂に入った。」
「お前、めちゃくちゃな生活してんねんな。プールはまだ通ってんのか。」
「昨日、安英に似た女がいた。」
 晃一は髪の毛をかきあげながら、高い空を見つめた。遠くでクラクションが鳴った。
「プールでか?・・・もう行かんほうがええ。」
「何で?」
「何でって、当たり前やろ。お前、あとで必ず後悔するで。」
「そんなの、わかんないだろ。」
 優の柔らかな髪に顔をうずめた。洗い立ての子犬の匂いだ。不意に襲う眠りを、コンクリートに邪魔された。
「もう一度傷ついたらお前は死んでまう。刃物がなくたって、俺が止めたってきっと。」
 彼女の髪が好きだった。早く起きすぎた朝に、隣で眠る彼女の髪の毛にいつまでも指を絡ませていた。永遠に失われてしまった、あの光に溢れた朝。何度帰りたいと願っただろう。
「なあ・・・。」
「何や。」
「何でもない。」
「なら言うな。」
 にび色の日差しが、優の体を通して自分自身の深いところに染み込んでいくのを、微かに感じた。
「やっぱり捨ててへんかったんやな、あの金魚。」
 優は水槽も見ずに、吐き捨てるように言った。優は晃一が金魚を捨てられないことを知っていた。
「からあげにして食うか。」
「気色悪いこと言うなや。冗談は顔だけにしとけ。」
「人のこと言えんのかよ。」
「あったり前やないか。関西のプリンスメロンと呼ばれてた俺に向かって何言うとんねん。」
「・・・お前、相変わらずわけわかんねえな。」
 こんなにも言葉を口にしたのは久しぶりだと、晃一は思った。一日中、誰とも話さない日さえあった。
「俺にかまっているなんて、お前も相当変わり者だな。」
「よう言うわ。」
 優が微笑んだ気配。生きているんだ、コイツは。と不意に思い出した。毎日働いて笑って安らかに眠る。ちゃんと、生きているんだ。
「やべ、今ちょっと寝てたわ、俺。」
「優・・・お前何しに来たんだ?」
「は・・・?は?何しに?何しにってお前、お前に会いに来る以外に何の用事があんねん。俺がここにヨガでもしに来たと思とるんか?」
「そんなこと言ってないだろ。」
 晃一の休日は、新聞を端から端まで読み、たまったクリーニングを受け取りに行ってからコンビニへに行く。その帰りに近所の本屋で経済関係の雑誌を買ってきて読破する。お決まりのパターンだった。
 街へ出ると人込みの中で1人、息苦しくなってしまう。晃一は、自分の体には深い溝があると思っていた。その中へ、他人の悲しみが否応無しに流れ込んできてしまうと。そんな気がして仕方なかった。
「何か、」
「え?」
 ストライプのシャツがゆっくりと起き上がる。優は晃一を見下ろしたまま言った。
「飯まだやろ?何か作ったるわ。何がええ?」
「何でもいい。」
「言うと思ったわ。」
 体がまた冷えていくのを風の冷たさで知った。晃一も起き上がって体をはたいた。冷蔵庫をのぞく優の後姿に、軽いデジャヴを感じながら。
 優は料理が得意だ。大学時代はよく優のアパートに入り浸っていた。安英と一緒が多かった。あの頃は、こんな時が来るなんて少しも考えたことはなかった。
 着替えようと寝室へ行く途中、背中越しに優の声。
「・・・やっぱり焼いて食っちまった方がええかもな。」
 赤い金魚は、晃一と安英をつなぎとめる最後の鎖だ。優はそれを、知っているのだ。

 優が帰ってからもう2時間。雨は音もたてずに降り続いている。雨が、細い針のように鈍く銀色に光りながら落ちていくのを、晃一は外へ出ることを躊躇う言い訳のように見つめていた。
 優の言葉は晃一を柔らかく縛り付ける。時計はもうすぐ6時を回る。窓を閉めてベッドに寝転んだ。優を誘えばよかったと思った。そうすれば、安英に似ているかどうかを確かめられたのに。
 立ち上がってリビングへ出ると、赤い金魚と目が合った。金魚は、水槽の中で行ったり来たりを繰り返している。まるで自分のようだと、晃一はつぶやいた。
 支度をしてスポーツクラブへ。ジムを抜けて階段を上り、ウエアに着替えてプールサイドに続くガラス扉を開く。今日は10人前後の客がいた。 
 軽く運動をしながら、プールの中にいる1人1人の顔を見ようと目を凝らした。あの時の女性は規定のキャップもゴーグルもつけていなかったが、今日はプールにいる全員が着用していた。
 晃一は水の中に入り、何気なく1人1人の傍に近づいて顔や体格を確かめたが、やはり昨日の女性ではなかった。それがわかった時、重い疲労が心身を襲うのを感じた。それでも、晃一は待った。零時が近づき、彼女が来ないことが確定になっても、泳ぎ続けた。泳ぎ疲れて死ぬことができればいいのにと思いながら。
 俺の地面は一体どこにあるんだ。重い鎖が足に絡みついて体が水面に上がれない。こんなんじゃ、息ができない。
 夢の中にいるような倦怠感を引きずって、部屋に帰ってきたのはもう2時を過ぎてからだった。雨はすっかりやみ、空には小さな三日月が昇っていた。純白のカーテンをすかして、月光が窓辺の水槽に降り注いでいた。
 金魚は目を開けたまま水中を漂っている。青草が揺らぎ、水底のビーズが静かに光を吸収してきらめいた。何て小さな水族館だろう。 
 晃一はいつの間にか、水槽の前で眠ってしまっていた。
 
 いくつかの曜日を越えて、いつもの金曜日が巡ってきた。晃一はウエアルームで着替えを終えるまで、安英に似た彼女のことはほとんど忘れてしまっていた。忘れようと勤めたし、あの日からほぼ1日おきに仕事帰りの優が部屋へ寄るようになったから、孤独がまぎれたのが要因だろう。
 そのことに気付いてしまうと、一旦はウエアルームを出ようとしたが、やはり晃一はプールに出た。プールは、張り詰めた水の中に彼女を隠していた。
 誰もいないと思っていたのに、急にあの時の女性が水面から顔を出した。気付くと持っていたタオルを落としていた。彼女はにこりともせずに晃一を見つめた。多分何秒かの出来事だったのに、ずっとずっと長く感じた。そして彼女はまた、水の中に消えた。晃一は我に返ってタオルを拾い、恥ずかしさと嬉しさで笑みを禁じ得ない顔を押さえながら、プールサイドの白いデッキチェアに腰掛けた。
 彼女は潜水をしているようだった。息を吸うために時々水面に顔を出す以外は、その白い水着がチラチラと水中に垣間見えた。他に人がいなくてよかったと、晃一はこっそりつぶやいた。
 そしてプールを見つめながら、さっきの彼女の顔を思い出した。やはり顔かたちは似ていない。けれど、何かが似ているのだ。どこだろう、と考えているうちに眠ってしまっていた。目を開けると、見慣れたプールで見慣れた人達が水を掻いていた。彼女の姿はなかった。
 晃一は慌ててプールサイドを歩き回ったが、怪訝な視線が返ってくるばかり。諦めてスポーツクラブを出ると、昨日より微かに太った三日月が晃一を見下ろしていた。
 それから毎日、晃一はプールへ向かった。軽く泳ぎ、変に思われない程度にプールへ入る人を見つめた。彼女は来なかった。会社も休んで一日中プールにいた。皮膚はふやけて真っ白になった。部屋へ帰ると、溜まっていく優からの留守電メッセージも聞かずに眠りに落ちた。
 1週間が過ぎた。今日で最後にしようと晃一は決めていた。今日、彼女がプールへ来なければスポーツクラブもやめようと決めていた。
 受付の女の子に苦笑いされながら、まだ人のいないトレーニングルームを抜け、暗い階段を上ってウエアルームに入った。
 誰もいないとひどく広く思えるこの部屋で、シャツを脱ぐのはもう何度目だろう。生暖かい塩素の匂いのする空気を吸うのは、吸水性の柔らかなマットに足を乗せるのは、重いガラス扉を引くのは、彼女の姿を探すのは、一体何度目だ。
 1日中プールにいると、人が波のように来ては去っていく規則性がよくわかる。何時間もクロールのみでコースを往復する老人や、目を閉じたままロープにつかまって歩き回る初老の女性、バタフライを短時間泳ぐだけの派手な水着の男。
 11時過ぎに最初のピークがやってくる。水泳教室があるからだ。中年の女性グループが若い男性トレーナー目当てにやって来て、年甲斐もなくキャアキャアと声をあげ、泳いでいるのか溺れているのかよくわからない泳法で水中を乱していく。
 2時過ぎにはマタニティ水中体操講座。プールサイドを、お腹の大きな女性達がのろのろと歩いていくのを、晃一はデッキチェアの上からひどく眩しいものを見るような視線で見つめていた。自分からは余りにもかけ離れていて、その日常がどうなっているのか想像すらできなかった。
 土日の午前中は中年男性が多い。会社のない日にストレス発散か、メタボリックを気にしてか。午後からは親子連れが増えてくる。子供は小学生くらいの子が多い。
 皆が自分の時間を持つことを、ここではまざまざと見せ付けられる。
 第1、第3金曜日の4時から6時はプールが一般開放される。この時ばかりはプールに入りきらないほど人が溢れかえるので、晃一は一旦上がってトレーニングルームに併設している小さなカフェに入った。
 窓から見える薄汚れたビルと、すぐ傍を走る私鉄の車内を眺めながら、薄いコーヒーを飲んだ。白い電車は、何もない晃一の体内を滑るように通り過ぎていった。
 プールから出てきた人達がカフェに流れ込んでくるのを目にすると、晃一は再びウエアルームへ向かった。
 水の中に潜ってしまうと、プールサイドに反響する笑い声も空調設備の機械音も水のはねる音も、遠く淡くなってしまう。この、世界と隔離された空間にいる時だけ、安心できるような気がした。
 まとわりつく青い光を掻き分けながら泳いでいく。水の中の方が息苦しくないのはなぜだろう。そんなことを考えながら夢中で泳いだ。気付くと、プールに人の気配がなくなっていた。静寂に包み込まれて、窓の外は暗く沈んでいた。1つ瞬きをしてプールサイドを見ると、あの白い水着の女性が水の中に膝下をつけて座っていた。晃一は、小さく声を上げた自分に驚いて慌てて口を押えた。
 彼女は足をゆっくりと動かしながら、晃一を見つめていた。唇が震えそうになるのを必死でこらえながら、1つ1つのレーンをくぐって彼女に近づいた。「こんばんは」とだけ、晃一は言った。彼女も同様に返した。その深い眼差しに、晃一の胸は高鳴った。
「手が、」
 プールサイドに乗せた晃一の手を見て彼女は言った。
「白くなってる。」
「本当だ。」
 晃一は他人の手を見るように、自分のふやけて真っ白になった指を見つめた。
「朝から泳いでいたから。」
 言いながら、プールから上がって彼女の隣に座った。
「先週も、来ていましたよね。金曜日に、泳ぎに来ているんですか?」
 彼女は晃一の視線を避けるように、うつむいたままうなづいた。
「泳ぐのが好きなんですか?水泳、やっていたんですか?」
「あなたも、好きなんですね。」
「大学まで水泳部だったんですよ。今は趣味で泳いでいるんですけど。」
「潜水で競争しません?」
 彼女は、するりと水の中に入った。突然のおかしな提案にも、気分の高揚している晃一は素直に隣のレーンに立った。
「せーの、」
 彼女が息を吸い込む音を、微かに聞いた気がした。晃一は目を閉じて壁を強く蹴り、水が自分に当たって左右に流れていく感覚を味わった。体が水の一部になって流れているような、至上の心地良さ。
 目を開けると、ウォーターブルーの水底が、ライトを受けてツルツルと光っているのが見えた。世界の裏側にある、2つ目の世界。安英と2人だけの、幸福な世界。
 肺から空気を出し切ってしまうと、水から顔を上げて大きく息を吸い込んだ。隣を見ると、彼女はいなくなっていた。プールサイドにも、水の中にも、彼女の姿はなかった。自分が長く潜りすぎていたためか、と晃一もプールを出た。急いで着替えをすませてカフェやジムを覗いたが、やはり見当たらなかった。しかし晃一は踊るような足取りで家へ帰った。
 彼女は毎週金曜日のあの時間にプールにいることを知った。しかも、言葉を交わすことができた。細くてまっすぐな、鈴のような声。そしてやっとわかった。似ているのは姿かたちではなく、仕草なのだ。
 うつむき加減の話し方、猫背の肩、ゆっくりとした瞬き、どれをとっても安英とそっくりなのだ。名前を聞いておけばよかったと、少しの後悔をプールに残した。
 マンションに帰ると、じっとしているのが妙な感じがして、優がいつの間にか置いていった野菜や肉で簡単な夕食を作り、テレビを見ずに食べた。こんなに食べ物が美味しく感じるのは久しぶりだった。ブロッコリーやベーコンやオレンジジュース。1つ1つの味を形を感触を、確認するように食べた。食べたものが体を伝って指先まで満腹になっていく気がした。
 食器を音が出るまで磨いて棚に収め、何ヶ月ぶりかに洗濯機を回した。毎月、食費よりもクリーニング代のほうが高かったことを考えた。うなる洗濯機の音を聞くことさえ、なぜだか楽しかった。
 風呂場で体を洗いながら鏡に映る自分を見ると、他人のように見えた。何もかもが初めてのようだ、とつぶやいた。
 洗濯物を乾燥機に入れている間、ベランダへ出て冷たい缶ビールを飲んだ。ビールがゆっくりと皮膚の下に染みていく感触を味わいながら、大きく息を吸った。
 星の光をかき消すような大きな半月が夜空に君臨しているのを見ながら、手すりにもたれて安英のことを思った。いつもの圧迫感はなかった。安英の笑顔を映写機に入れても、スクリーンには滑らかに映った。
 
「今日は鍵、かけとるやん。」
 仕事から帰ってスーツを脱いでいると、インターフォンが鳴った。出て行くと紙袋をさげた優が立っていた。
「普通だろ。」
「お前な、留守電聞かへんかったんか?冷蔵庫に救援物資入れておいたの誰や思てんねん。泥棒かて驚くわ、立派なマンションやのに。ホイコレおみや。」
「冷凍たこ焼き?お前実家帰ったの。」
 晃一は紙袋の中身を取り出しながら言った。
「昨日帰って来た。上がるで。」
「ありがとな。まあ座れよ。」
「こっちの台詞や。何も作れんくせに。何がいい?」
「カルボナーラ。」
「久々のリクエストやん。何かあったん?先週よりずっと顔色いいし、掃除もしたみたいやし・・・あっ食料減ってる。どないしたん。」
 優は冷蔵庫に向かってまくしたてた。
「よく喋るよなあ。」
 優の肩越しからビールを取って、ガラスのコップにそそいだ。調度良くたこ焼きの解凍も終わった。
「喋んのは俺の趣味や。いつ覗いても電気ついてへんし、失踪したかと思っとったんや。もう少しで捜索願出すところやったわ。」
「お前、ストーカー?」
 ソファに座ってたこ焼きをつまみながら晃一は言った。
「ストーカーちゃうわどあほ。こっちが心配してやってんのにのん気なもんやわ・・・あっ、お前そんなに食ったら俺のカルボが食えなくなるって、やめとき。」
「母親かよ。」
 晃一は笑いながら言った。優の手の中からパルメザンチーズの柔らかい匂いが漂った。
「お待たせ。黒胡椒はお好みで。ワインないん?カルボには赤ワインやろ。」
 優が、晃一の前に湯気の立ち昇る皿を置いた。
「あああ、こぼしとるで。お前がこんなにがっつくん見んのはほんまに久しぶりやわー。感慨深いわ。」
「お前も黙って食べろ。」
「しゃーないやん。喋ってんねんから口つこうてるわ。」
 そう言っても、優は嬉しそうに笑った。
 
 今日こそは名前を聞こう。できればもう少し、何でもいいから話をしよう。学生の時のように変にワクワクした気分で金曜日のプールサイドへ出た。彼女はもう来ていた。
 体育館の天井にぶら下がっていたものと良く似たライトが、彼女の体を強く照らしていた。じっとりと濡れた緑の葉を四方八方に伸ばしている熱帯植物の隣で、晃一は彼女の立てる小さな波を見ていた。
 白い水着が水面に近づいたり離れたりしながら進んでいく。髪の毛が、ゆるやかに水中を移動する。何という泳法だろう、見たことのない泳ぎ方だ。まるで水を乱さない。彼女の動きをじっと見ているとどうしてか眠くなってしまう。
 晃一は、彼女が水から上がるのを待った。
「こんばんは。」
 晃一のすぐ足元に顔を出し、彼女は言った。晃一は嬉しさを無理に隠そうと、口を余り動かさずに「1週間ぶりですね。」と言った。
 彼女は、ゆっくりと確かめるように、ステップを使って水から上がった。彼女の動作がやけにぎこちなく、体が左右に揺れていることに気付いた。
「どうしたんですか。」
 彼女は安っぽいプラスチックのデッキチェアに座りながら、微かに笑った。その笑い方まで、まるで安英だった。呼吸を忘れそうになりながら彼女を見た。
「少し、泳ぎすぎたみたい。」
 彼女は気だるそうに体を横たえ、左手を額の上に乗せた。顔色は青白く、胸を大きく上下させている。彼女の視線に気付いて、晃一は慌てて視線を戻した。
「すみません、変な言い方ですけど、隣、いいですか。」
 指の間から眩しそうに晃一を見上げ、彼女はゆっくりとうなずいた。隣のデッキチェアに座ると、余計に脈が早まった。何か話さなくてはと思うのに、喉から声が出なかった。彼女は額に手を当てたまま目を閉じている。晃一は汗ばむ手をにぎりしめて言った。
「名前・・・お名前教えていただけませんか。」
 口から出た言葉は、自分で聞いてもおかしかった。全く今の状況に合っていない。言ってから、晃一も恥ずかしさで目の上を押えた。
「・・・エ、」
「え?ヨシエ・・・さん?」
 聞き返すと、彼女は困ったように笑った。その意味をはかりかねて、晃一は彼女の瞳を見つめた。その中には、確かに晃一の顔が映っていて、懐かしい安心感に全身が満たされていくのを感じた。
「俺は村田晃一、よろしく。」
 晃一の伸ばした手を、彼女はつかんだ。その手が微かに震えているのに気付いた。
「寒い?」
 彼女は黙って首を振った。その仕草を見ても、まるで記憶の中の安英との二重写しのようだと思った。
 聞くことや話すことをリストにでもしてくるんだった、と考えているうちに、晃一は目を閉じてしまっていた。耳の奥で、水のはねる遠い音を聞いた。涙の落ちるような音だった。
 目を開けると、天井のライトが視界を真っ白く覆っていて、もう1度目を閉じて今までのことを思い出す必要性に駆られた。少しずつまぶたを開け、1つ呼吸してから横を向くと、当然のように彼女の姿は消えていた。

 日曜日に、優に誘われるまま街に出た。大きなデパートへ入って、靴下とネクタイとコップとベッドカバーとフライ返しと文庫本3冊を買い、スマートフォンの機種変更をし、近くの映画館でコメディータッチの恋愛映画を見た。街は人で溢れかえるようだったが、不思議と苦痛は感じなかった。すれ違う人の顔を見ても、悲しくなることがなかった。ただ何もかもが新しくて眩しかった。
 映画を見終えると、小さなカフェに入ってモカコーヒーを頼んだ。店内は若いカップルや学生風の友達連れでにぎわっていた。典型的な日曜の午後。
「お前もやっとざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がするって感じやね。よかったやん、かなりブランクはあったけど時代の波に乗れて。」
「スマホの機種変更しただけで時代の波に乗れるなら苦労しないって。」
「もっと乗るんやったら三種の神器買えばええやん。」
 優は生クリームをスプーンですくって口の中へ入れながら、上目遣いで晃一を見た。
「三種の神器?まが玉と鏡と、」
「アホお前、いつの話してんねん。せめて昭和のを言えよ。まあええわ。晃一は金使わへんから貯まってくばっかりやろ。金は天下の回り物やで。」
 優はニッと笑った。優の背後を、ウエイターがせわしなく動き回っている。
「考えとく。それにしても混んでるな。」
「日曜やからしゃーないやろ。良く出かける気になったな、出不精が。」
「俺、太った?」
「ベタベタなボケかますな。あーあ、映画の主人公の女の子、可愛かったなー。やっぱ女は可愛げがないとあかんなー。」
「何、お前またフラれたの。」
「またって言うな。俺がフッたんや。逆や逆。」
 透明度の高い日差しが、窓際に置かれたガラスの花瓶に集まっていた。晃一は優の顔を、目を細めるようにして見た。
「お前はどうなん?プールの女と何かあったんやろ?」
 晃一は、優の鎖骨の辺りを見ながら黙った。多分、呆れられるのが怖かった。
「言えって。怒らへんから。」
 そう言って、優は目をくしゃっと閉じて笑った。
「2回、話した。」
「・・・それだけ?」
 晃一はうなずいて、コップの中をかき混ぜた。
「何や、もうガツーンバチーンドカーンかと思てたわ。」
「何だよそれ。」
「まあ、安英に似てるってとこが引っかかるけど、お前が明るくなったんはええことや。心配事が減ってオカン嬉しーわ。」
「誰がオカンだよ。」
「人は前に向かって進まなあかん。」
 優は口角をぎゅっと上げて、楽しそうに晃一を見た。
「お前ってペコちゃんに似てるな。」
「ハアァ?な、何言うとんねん。俺が励ましてやってる時にペコちゃんやて?ハアァ?」
 優は頭から湯気を出しながら、ガクンとテーブルに突っ伏した。30秒くらいたってから、優の体が小刻みに動き出し、ガバっと跳ね起きた。
「いやあのな、ここだけの話、ジュンコにも同じこと言われてん。」
 晃一は、赤くあとのついた優の額を見ながら笑った。人が振り向くくらいに、優が口を押えるくらいに、大声で。
「はずかしいわ、もーっ。どっかのネジがはずれてしもたんかと思ったわ。」
 荷物持ちを手伝ってくれた優が、マンションの扉を押し開けながら言った。振り返った優の肩越しに、丸みを帯びた銀の月が見えた。
「笑うとスッキリするけど疲れるな。」
「お前は人の気も知らんとそんなこと言うてムカつくわー。あれ・・・?オイ、金魚元気あらへんな。動きがおっそいし、なんや上の方におるで。」
 優が、水槽の中を覗き込みながら言った。
「あ、餌やってない。優、そのイスの下。」
 晃一がキッチンから叫んだ。
「いつからやってないんや。ほれ見てみい、慌てて食べとるやないか。水も替えてへんみたいやし、あかんで。」
 晃一は水面に顔を出しては餌を飲み込む金魚に見入った。
「餌やらないと死んじまうんだな。」
「当たり前やろ。生きてんねんから。」
 優の言葉に、晃一は黙った。生きている。その言葉がなぜか恐ろしいと思った。どうしてだかわからない。急に、そう思った。
 金魚は、半透明の尾びれを揺らしながら、寂しげに上下した。

「社長の息子、えっとなんて言ったっけ・・・そう、村田さん。最近評判いいらしいじゃない。」
「そうそう、明るくなったし良く笑うし遅刻しないし、それに近くで見たら意外とカッコいい。」
「へえ、前は寝癖たってたのにねー。何の変化かしら。」
「鈴木君のところの新プロジェクトに名乗り上げたらしいわよ。最初はみんなとまどってたらしいけど、実際かなり使えるらしいって。」
「鈴木君のって、相当期待背負わされてるやつでしょ?今までのらりくらりやってたのにねえ。」
「あ、来たっ。」
「「おはよーございまーす。」」
 会社帰りにレンタルビデオ店に寄った。優が、珍しいなあと店の前を通るたびにつぶやいていたことを思い出す。30分以上迷って、昨日電車の吊り広告で見たシリアスな恋愛映画を借りた。前回ビデオを借りたのは2年前で、会員証の更新のためにお金を払った。そんなに前だったのかと、空に浮かぶ円に近い月を見上げながら思った。2年という数字に、晃一はわずかに眉をひそめた。
 コンビニに寄って缶ビールと枝豆とから揚げを買った。明日は金曜日。多分眠れないだろうからと、週刊誌も1冊レジへ持っていった。
 マンションについて玄関脇の電気をつけようと手を伸ばす途中、不意に上げた視線の先に、青白く発光する水槽があった。電気をつけることをやめ、靴を脱いで荷物をソファに放り、水槽の前にしゃがんだ。
 朝にカーテンを開けっ放しにしていたため、窓から月光が射し込んで、水槽の中の金魚を3D写真のように浮かび上がらせていた。
 金魚は目を開けたまま、一体どこを見ているのだろうか?晃一は水槽に顔を近づけ、指でガラス越しの金魚をなぞった。金魚は逃げるように揺らめいた。ビニールのおもちゃと、どこが違うのだろう?生きているのかさえ、今この状況じゃ誰も証明できない。
 晃一はシャツの袖を乱暴にめくり上げ、手を水槽の中に差し入れた。自分の手が金魚を追いかけるのを,他人事のように見つめた。金魚はとまどうように尾びれを揺らし、以前捕まえようとした時とは明らかに違った反応を示した。
 金魚はすり抜けたのではなく、晃一の手の中から逃げ出したのだ。晃一は驚いて、反射的に手を引き抜いた。藻草の匂いのする水が、晃一の顔にはねた。
 しばらく呆然としゃがみこんでいた。金魚は、晃一の視線を避けるように、水槽の中をせわしなく動き回った。こんな小さな動物に、心の中を読まれた気がした。
 一定の速度で揺れる水草は、まるで荒野の木々のよう。そして、溢れ出した青い水流が、雲の糸のように晃一の周りをぐるぐると旋回し始めた。金魚は銀の月明かりに照らされながら、ゆっくりと水槽から泳ぎ出た。晃一が腕を伸ばすと、金魚はその指に触れ、微かに身じろぎをした。
 冷たい冷たい月明かり。水草の緑だけがただ、規則的に揺れ続けている。赤い赤い金魚は、目を開けたまま温度のない水に乗って、晃一の周囲をくるくると回り続けた。まるで軽やかなワルツでも踊るように。

 誰もいないプールサイドで、彼女は膝を抱えてうずくまっていた。もう水に入ったのか、髪の毛からは雫が垂れていた。晃一が声をかけると、顔を上げて会釈だけ返してすぐにプールの方を向いてしまった。
 晃一は彼女の斜め後ろで体をほぐしながら、子どものように小さな後姿を盗み見た。そして、安英が落ち込んでいたり悩みごとがあるとあんな風に部屋の隅で膝を抱えていたことを思い出して、こっそりと微笑んだ。
 水に入ってコースを往復してから、彼女の目の前へ顔を上げた。
「何か、悩みごと?」
「どうして?」
 彼女が驚いたように顔を上げた。
「そう見えたから。もう泳いだの?」
 彼女は口ごもった。
「キャップ、かぶらないで怒られない?」
 彼女はよくわからないという目の動きをしてから、誰かに指示されたように機械的にうなずいた。
「いつもその水着だね。あ、悪い意味じゃなくて、その、」
 晃一は慌てて、大げさな手振りで否定の意を表し、彼女の反応をうかがった。
「嫌い?白・・・。」
 彼女は微かに眉根を寄せた。その表情を見たら、なぜか切なくなった。何か透き通ったものが自分の中に流れ込んできたような気がしたからだ。
「好きだよ、白。それに、君に良く似合ってる。」
 そう言うと、彼女は笑った。晃一が初めて見た笑顔だった。
「このあと、飲みに行かない?」
 しかし、彼女はまた悲しげに目を伏せ、顎を膝の上に乗せた。
「あ、明日もしかして仕事?じゃあこの下のカフェでお茶でも、」
 彼女はぎゅっと身をかがめ、小さく小さく首を振った。
「そっか、遅くなったら電車なくなっちゃうよね。え・・・っと、明後日、明後日の日曜に映画でも、」
 晃一の言葉を遮るように、彼女は首を振り続けた。晃一の胸は鈍く痛んだ。
「ごめんなさい。」
 消え入りそうな声で、彼女は言った。
「謝らなくても、いいよ。」
 そう言って、晃一は無理矢理笑った。
「でも、また来週会えるかな、ここで。」
 彼女は顔を上げ、口を真一文字に引き結んだまま深くうなずいた。それでよかった。それだけでよかった。
「泳がない?」
 晃一が言うと、彼女は立ち上がって飛び込み台に乗った。晃一も一度水から上がり、台に乗った。
「せーの、」
 同時に飛び込んだ・・・気がした。そして晃一は深く深く潜水した。水色の床が顎についてしまうくらいに深く。小さなほこりやペンキが剥げ落ちているところもよく見えた。隣を向くと、彼女は長い髪を水草のように揺らしながら、足の力だけで進んでいた。まるで人魚のようだとぼんやり思った。
 息が苦しくなって、水面に顔を出そうと上を向いた瞬間に、誤って大量の水を吸い込んでしまった。慌てた時にはもう遅かった。鼻からも冷たい水が浸入し、呼吸の仕方が完全にわからなくなるほどパニックに陥った。
 激しい頭痛を覚えて目を閉じると、体がどんどん重くなるのを感じた。手足が思うように動かない。薄れゆく意識の中で、彼女の白い手が俺の手を掴むのを、夢のように遠く見つめた。そしてこのままじゃ死ねないと、強く強く、思った。
 肺を思い切り殴られたような衝撃を感じて意識を取り戻した。咳き込みながら目を開けると、黒い影の隙間から目を刺すような光が飛び込んできて、痛みに目を細めた。
「意識、戻ったようです。」
「あっ、田村さん、わかりますか?」
 2つの影が同時に喋った。目をこらすと、晃一が寝転がっているのはいつものプールサイドで、2つの影は見慣れたスポーツクラブの従業員の女の子達だった。
「苦しいとか痛いとかありますか?」
「少し、頭痛が、」
「病院、行きましょう。保険証は、」
「いいです、平気です。それより、」
 晃一はゆっくりと上体を起こした。2人が心配そうに見つめている。
「さっきここに女性がいませんでしたか。」
「いえ、私たちが村田さんを見つけた時には誰も、」
「そんなことより動けますか?職員の車で送らせましょうか」
「本当に大丈夫ですから。多分貧血かなにかで、すみません御迷惑をおかけして、」
 生まれてからこれまで3本の指に入るくらいに頭を下げてスポーツクラブを出た。多分、自分をプールサイドに上げてくれたのは彼女だ。歩きながら、彼女の仕草を、交わした言葉を、何度も何度も思い返した。
「優、久しぶりだな。」
「出張で箱根に行っててん。ホイ、おみや。温泉たまご饅頭。」
「まあ上がれよ。」
「上がるなって言われても上がるわ。」
 優は晃一に饅頭の箱を渡すと、靴も靴下も脱いでソファにどっかと沈み込んだ。
「お前は深夜帰宅のお父さんかよ。」
 そう言いながら、優に缶ビールを放った。
「さっき帰ってきたばっかりやねん。お前んちの方が近いからさ。明日休みやろ?泊めてーな。」
「いいけど、パンツは貸さないからな。」
 自分用のビールと枝豆を持って優の向かいに座った。
「はあ?えーやん。減るもんやないし。」
「コンビニでパンツくらい買ってこいよ。」
「コンビニ寄る余裕があったら家帰るわ。ほんまに疲れたー。何かないん?」
 優はネクタイを緩めてシャツのボタンを2つはずし、ソファに寝転んだ。
「しょうがないな、俺が何か作ってやるよ。何かあったかな・・・。」
「お前、何か作れるのか?心配やなあ。」
 そう言いながらも、優はビールを右手に、空いた手でテレビのリモコンを操作し始めた。晃一は冷蔵庫を覗き込み、冷凍ピザと少し固くなったチーズ、もらい物の明太子を掘り当てた。
「何や料理ちゃうやん、解凍やん。」
「嫌なら食うな。」
 晃一が皿を自分の方に引き寄せると、優が慌てて熱いピザを手に取った。その隙にリモコンを奪い、チャンネルを替えた。
「あぢあぢっ、チーズが口にくっついて取れんわ。」
「すぐにビール飲むからだよ。落ち着いて食えって。」
「うわーくちびる火傷したわ。オイ、チャンネル替えんなや、阪神どうなってん。」
「知るか。とにかく巨人が勝ったってことは確かだな。あ、爆弾テロだって。」
「日本も危ないなあ。」
 何分間か、2人ともテレビを見つめたまま黙った。口を開いたのは優だった。
「観葉植物、いつ買うてきたん。」
「今日。」
「掃除機は。」
「今日。」
「プールの女と何か進展あったん?」
 優はテレビの方を向いたままビールを一口飲んだ。本当に、父親みたいな顔をして。
「別に、」
「金魚がごっつ元気ないで。死にそうな泳ぎ方しとる。」
「・・・飲みに誘った。」
「うん。」
「断られた。」
「うん。」
「お茶でも飲みませんかって言った。」
「うん。」
「断られた。」
「うん。」
「映画に誘った。」
「うん。」
「断られた。」
「それで。」
「来週もまた会えますかって聞いた。」
「はあ?」
「いいって。」
 優は顔を上げて晃一に向き直った。晃一は下を向いたまま枝豆をポリポリ食べた。テレビのニュースでは連続通り魔犯が捕まったことを告げていた。
「高校生かお前は。LINEは、」
「知らない。」
「SNSは、」
「知らない。」
「聞いたのか?」
「聞いてない。」
「なんやねん。どーしたいねんお前は。」
 優が呆れた顔をして晃一を見、ビールの缶をテーブルに置いた。
「なあ、もう安英のことはふっきれたんか。お前はそのプールの女と付き合いたいんか。」
 晃一は長いこと黙っていた。テレビでは日付の変わった今日の天気を予報していた。遠くでちゃぷんと水のはねる音がした。
「わからない。けど、新しい何かが俺の中で形になろうとしている気は、する。でも似ているんだ、安英に。そのせいかどうか、まだよくわからない。」
 一言一言噛みしめるように言い、合間を埋めるために枝豆をむいては口の中に入れた。ちゃぽんちゃぽんと水のはねる音がする。くるくるくるくると金魚が泳ぐ、音がする。
「不安やないんか、安英に似た女言うて、」
「安英のことを忘れろって言ったのはお前だろ。」
 晃一が怒鳴った。重い沈黙が部屋を覆った。窓の外の闇が一段と濃くなった。テレビではフランスの古い映画のイントロが鳴っていた。
「ごめん。不安なのは・・・俺やねん。もう大事な友達、失いたくないねん。」
 優が両手で顔を覆い、掠れた声で言った。
 安英は、優の小学校からの幼なじみだった。同じ町内で、ずっと本当の兄妹のように育ったらしい。3人で集まると、いつも優と安英は子供の頃の失敗を暴露し合っては笑っていた。
 優から安英を紹介された時、耳元で「手え出したらあかんで」と言われた。忠告を無視して安英と付き合い出しても、優は相変わらず笑っていた。優はずっと安英が好きだったのだと、安英が死んでからやっと気付いた。長く長く温めすぎたせいで、その思いはきっと、ダイアモンドのように硬く美しくなったのだろう。
 自分よりも優の方が安英を愛していたのではないかと、今でも時々思う。

 いつもの時間にプールサイドへ出た時は、まだ何人かの利用者がいたが、晃一が準備体操を終えて水の中に入る頃には、ぱったりと人けがなくなった。
 50メートルを泳ぎきった時に顔を上げると、彼女はいた。飛び込み台の脇に膝をついて、水の中を、晃一を見ていた。その視線に気付くと、頬が熱くなるのを感じた。でも、彼女はなぜか今にも泣き出しそうに見えた。下を向いているせいで髪の毛が青くペイントされた床に届きそうだ。
「どうかしたの?」
 晃一の問いに、彼女は小さく首を振ることで答えた。
「でも、とても悲しそうな顔をしてる。」
 それでも彼女は、じっと晃一の顔を見つめたままだ。
「泳ごう。」
 晃一は自分でも驚くほどの強引さで、彼女の腕を掴んで水の中に引き入れた。水しぶきさえ上がらなかった。まるで元から液体であったかのように、彼女の体は抵抗もなくプールに溶けた。
 水の中で向き合った。彼女はちょうど晃一の鼻の高さに目線があった。ぱしゃん、と水がはねた。彼女の目の中にまで水は流れ込み、ゆらゆらと不安げに揺れた。それに合わせて晃一も揺れた。突然プールがとても広く、寂しく感じた。
 何も言わずにただ見つめ合っていた。晃一は彼女の水色の目の中に何かしらの感情を読み取ろうとしたが、彼女はそれを拒否するかのように目を閉じた。プールが波立った。
 遠くで水のはねる音。ここはまるで冷たく青い海のよう。
「何かあった?仕事で嫌なことでも、」
「何も。」
「俺でよければ相談に乗るよ。ヨシエさんが悲しい顔をしていると俺も悲しくなる。あー・・・ちょっと変な言い方かもしれないけど。」
 照れ笑いをしながら鼻を掻き、黙ったままの彼女を見つめた。
「話したくないならいいんだけど、好きな子のことだから気になるんだ。」
 彼女が顔を上げた。そのくちびるに、晃一は小さなキスをした。まるで幼稚園生のような、可愛いキス。それでも、晃一の胸は張り裂けんばかりに鳴った。
「君のことが好きなんだ。お互いまだ何も知らないけど、俺は君が、」
 彼女の目はみるみるうちに大きくなった。
「突然で驚いているのはわかる。だから付き合ってなんて言わない。でも、君の気持ちを教えてほしい。来週ここで、聞かせてほしい。」
 開かれたままのくちびるに、もう1度くちづけたいと思った。けれど、晃一は1人で水から上がり、ぎこちない動作でウエアルームに入った。彼女の視線が裸の背中に痛かった。
 何度もボタンを掛け間違えながら、ジーンズをはこうとしてよろけながら、荷物を床に落としながら、ウエアルームを出た。振り返ってプールを見ると、何事もなかったように、やはり彼女は消えていた。あとには青と黄のコースロープが不安げに上下していた。
 それから晃一は夜中に何度も起きてしまうようになった。そんな時はベランダに出、欠けていく月を眺めては彼女のことを思った。もう、金魚を見ようともしなくなった。ただ義務として餌をやり、優にうるさく言われないように水を替える。晃一にとって安英のくれたこの金魚は、手のかかるペット以外の何ものでもなくなった。
 水槽型の画面に魚の映像を映すイミテーションアクアリウムと、さほども違いはないように見える。金魚はそれを知ってか知らずか、以前のようには動き回らなくなり、餌もあまり食べなくなった。優も近頃は金魚のことに触れないよう、安英のことに触れないように晃一に接しているのがわかる。
 俺の心は正しい方へ向かっているのか?ふと、そんなことが頭をよぎる。その度に、プールと、彼女の柔らかいくちびるを思った。
 青いプールと赤いくちびる。彼女は一体、誰なのだろう?

 金曜日の明け方、もう習慣のように目が覚めた晃一は、珍しく水槽の中を覗き込んだ。血のように赤い金魚が、青い水の中に立ち止まっている。じっと、晃一はその動作を眺めた。そして、金魚に安英の姿を重ね合わせてみた。
 笑顔、寝顔、泣き顔、うなずく時の顔、怒った時の顔、悩んでいる時の顔、そして安英が死んだ時の顔。もう原形をとどめないほどぐちゃぐちゃに押しつぶされた顔。しかし、棺の中の安英はすっかり元通りになっていて、まるであの事故が悪夢だったのだと勘違いしてしまいそうになった。
 粉をまぶしたように白かった安英の死に顔。忘れかけていた傷口から、ジュクジュクと透明な体液が再び湧き出したような錯覚。息をするだけでヒリヒリと痛む、あの深い傷。2年かけてもまだ、癒えきっていなかったのか? 
 晃一は水槽の中に手を入れ、金魚をつかみ出した。その目で晃一を見つめながら、ピチピチと力なく尾びれをふるわせた。手の平の中の小さな生き物は、声さえ出せずに弱っていく。
 そして晃一は、キッチンの生ゴミバケツの中に、その小さな赤い金魚を、捨てた。

 その日、プールの中で人が往来を繰り返すのを、晃一はぼんやり見つめ続けた。長い映画を見ているようだった。役者がプールから出たり入ったりするだけの、退屈な映画。ヒロインになるはずだった彼女は、とうとう現れなかった。
 スポーツクラブの職員に肩を叩かれるまで、晃一はじっと水面を凝視していた。夢遊病者のようにフラフラと着替え、スポーツクラブを出た。色々なことを色々な風に解釈するのに疲れ果て、部屋のソファにそのままの格好でつっぷし、いつの間にか眠ってしまっていた。
 夢の中に彼女が現れた。白い水着ではなく、真っ赤なワンピースを着ていた。彼女は踊るような足取りで、遠く遠くからやって来た。白い空間の中で、彼女のワンピースは残像のように揺らめいた。
 立ち尽くす晃一の前に、彼女は唐突に、まるで小さなテレポーテーションのように舞い降りた。晃一は黙ったまま、愛しそうに彼女を見つめた。赤いくちびるを開けて彼女は言った。
「もう、知っているのね。私は、あなたが捨てた金魚だということが。」
 晃一は微かにうなずいた。
「安英さんの部屋に、居たの。毎日、あなたのことを聞いた。会ってみたいと、ずっとずっと思っていたの。あなたに、飼われてみたかった。そうしたら、私の望み通りあなたのところへ行くことができた。すぐに、あなたのことが好きになった。
 毎日、あなたと安英さんが一緒にいるのを見ていた。冷たい水の中から、毎日。安英さんが羨ましかった。あなたに触れないでほしかった。あなたに私を見てほしかった。ずっとそう、祈っていた。そうしたら安英さんは死んだ。
 でも、あなたは私の方を見てくれるどころか赤い色さえ嫌うようになった。悲しかった。あなたが憎かった。だからあなたを水の中に誘った。
 やっと私だけのものにできると思ったのに、あなたを私のいる水の中へひき入れることができると思ったのに、私はそれを躊躇ってしまった。だって私はこんなにも赤い。白くなりたかった。あなたが望んだ白に。
 ねえ、気付いていたんでしょう?あなたが私と会っていたプールは、あの水槽なのよ。」

 短い夢から目覚めると、晃一は強い吐き気を抑えながら這うようにしてキッチンへ行き、生ゴミバケツの蓋を開けた。茶色く変色した金魚が、晃一を見つめていた。
 震える手で金魚を拾い上げると、金魚は微かに揺れ、白い、一つの煙になって、晃一の手の平の中で消えていった。


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