勉強する④の訂正です、⑦『丸山遊女の種別と客種』②
この記事は先に公開してしまった下記リンク先記事の訂正と、更に細かく時代別にわけた「遊女の種別と客種」になります。
記事中の以下の部分に訂正をいれていきます。いやもう本当に当時の長崎丸山遊郭関係者に投げられた豆腐の角にあたまぶつけて泣きたいくらい恥ずかしいです。
①日本行遊女
訂正前) 日本人しか遊客にとらないという最上級の遊女のはずです……が、②から説明する遊女たちの存在をみると、実際どうだったのだろうという疑問は残ります。
訂正後) 長崎に住んでいたり仕事にきている武士階級(聞き役とか)や、商人が主な客層だったようです。日本行遊女は「太夫屋」にしかいない、太夫のなかの太夫、トップオブ選ばれた一握りの最高級遊女です。格としては吉原の太夫格遊女と同じでは?とのことでした。
②紅毛行遊女
訂正前) こちらは「長崎丸山といえば出島へいく丸山遊女」のイメージそのままですね。この方たちが出島に行くルートに関しては、また別の日にまとめたいと思っています(まだ特定できていない場所があるもので…すみません)。
出島へはオランダ商館長など上役やその身の回りの世話をする限られた人々、それも男性しか上陸許可を許されませんでした。妻子であっても女性の上陸は不可でした。ちなみに商船の水夫さんたちは商船内で海上生活だったそうで…他人事ながらつらいです。
また、欧米人とのあいだにできた子供については死産の場合でも長崎奉行所に届ける必要があったそうです。
訂正後) 訂正というよりも追記になります。紅毛人(リンク先:コトバンク)とは江戸時代に”ひろく西洋人をさしていう言葉”だそうです。丸山遊郭に限ると、出島や幕末の外国人居留地に住む西洋人をさす言葉だったかと思われます。実際は廓用語というか業界用語で、どういう言葉で呼ばれていたかは、江戸時代の丸山遊郭関係者にインタビューできないので推測でしかないのがつらいというか、タイムマシン欲し…(ここで『長崎にGO TOできれば博物館や図書館に行けて解決する気がする説』がタイトルの由来であることを思い出しました)。
そんなわけで、紅毛行遊女は「出島行遊女」とも表記されます。天明年間にはじめて出島行の太夫格遊女がでたあとは、唐人屋敷以外にも出島にもおもむくようになります。これについては④の引附遊女仕切遊女でも書いています。
③唐人行遊女
訂正前) 唐人屋敷は出島とは違い、身分は関係なく上陸はできていたようです。もともと貿易で頻繁に訪れており、なかには帰化して通詞(通訳)として幕府に雇われることになる人々も排出しています。貿易で取引のある長崎の町人宅などを宿としていたそうです。出島ができたあと市内に居留地(唐人屋敷)がつくられ、そのなかに住むようになりました。
唐人とのあいだにできた子供については、とくに届け出は必要なかったとのことです。
訂正後) 明らかな誤表記を訂正いたします。
誤) 唐人とのあいだにできた子供については、とくに届け出は必要なかったとのことです。
正) 唐人とのあいだにできた子供の扱いについては、出島に住む西欧人と同じく死産の場合でも長崎奉行所に届ける決まりがありました。
④引附遊女・仕切遊女
訂正前) ”引附遊女”に関しては、横浜港崎遊郭でも同様の契約形態の”名前だけ遊女”がいました。港崎遊郭の場合、その遊女鑑札(違法である私娼ではなく合法である公娼と証明するもの)を融通したり月々の上納金を納めてもらうことで見世の営業がうるおう、という両者にとっておいしい仕組みになっています。
長崎ではどのような契約になっていたのかは調べているところですが(2020年12月現在)、唐人屋敷や出島内の異国人と”個人的に契約”して出入りしていたということなので、丸山遊郭内の店には住まずに街中で暮らしていたのでしょう。
※ 安政五か国条約を調印後に、出島に住む異国人たちも通詞(通訳)などの役人を付ければ街中を散策したり丸山遊郭に直接行けるようになったそうです(ゆるい)。
訂正後) 訂正と追記です。「長崎ではどのような契約になっていたのかは調べている」のその後、現在まで調べることができた範囲では寛保年間にはすでに存在していたことが記録に残っています。引附と仕切、表記を区別する理由や根拠はまだ調べている途中です。
唐人屋敷や出島の移住地区にまで出入りできる日本人女性は幕府公許遊郭である丸山遊郭内の女性、つまり遊女もしくは見習いである禿の資格を所持している必要がありました。異国人である彼らの妻妾であったり、遊女とのあいだに生まれた子供の乳母を務める場合にも「丸山遊郭内の店に勤めている遊女」として手続きをする必要があったようです。
遊郭で長期間年季奉公するほどでもないだとか、遊郭で働くとなると自分でお客が選べないのがイヤだとか、お金は必要だけども他人に売春をしていることを知られたくない女性がいた場合、「知り合いと顔を合わせることがない」唐人屋敷や出島という空間は非常に都合がよかったのではないでしょうか。
ただ、前述のように「丸山遊郭内の店に勤めている遊女」の資格がないと出入りができないので遊郭と契約しておく必要がありました。ただし、この制度は公的に認められていたわけではないようで寛保年間に唐人屋敷や出島内にいた百人余りの引附遊女・仕切遊女が一斉検挙され、丸山遊郭で三年間の年季奉公をする「奴女郎(リンク先:Wikizero)」の罰を受けています。(奴女郎の罰になった事件の出典元:『丸山遊女の生活--「長崎奉行所判決記録犯科帳」を中心として
著者 宮本 由紀子』)
さて、この引附遊女・仕切遊女は「丸山遊郭のどの店に所属していたのか」? 調べると、丸山遊郭内では遊女ではなく店に序列があります。
上から「太夫屋」「みせ(店・見世)」「なみ(並)」です。「なみ(並)」は後年その名称がなくなりますが、揚げ代をみると「”高い”みせ」と「”安い”みせ”」に分かれただけかなという気がしなくもないです。
横田冬彦先生の『長崎丸山遊郭の「遊女屋宿泊人帳」覚書 (特集 日本近世女性史)』を読むと、有名な引田屋さんも「”太夫屋”の引田屋」「”みせ”の引田屋」「”なみ”の引田屋」といろいろな客層に対応した、いまの風俗店ふうに言えば引田屋グループとか引田屋系列が展開されています。
ですので、たとえば「引田屋の遊女が出島や唐人屋敷にも行った」とひとくちにいっても「どの引田屋だよ」とツッコミたくなります。吉原細見みたいなものが手にはいればわかりそうですけどね。
個人的には「これだけ有名なシーボルトの子を産んだ其扇さんが常勤の遊女だったのかパートタイムの引附遊女だったのか判明してない時点でむずかしいのでは?」と感じています。
『丸山遊女の種別と客種』、まだまだありますので、しばらくシリーズ化しそうです。