勉強する④『丸山遊女の種別と客種』※⑦⑧がこの記事の修正版になります
長崎沼世界史担当の某Sさんこと、うさきち(@usakiti_e)さんに頂きました。ありがとうございます!一緒に底なし沼にしずんでいこうね(笑顔)!!
ところで丸山遊郭とは?成り立ちをひとことで説明できないので検索してみました。
この説明でなんとなくどういった目的の遊郭だったのかはご理解いただけたかと思います。
でも、ちょっと用語の意味、わかんなくないですか?「鎖国してるんじゃなかったっけ?」「阿蘭陀人のほかに露人館?てかポルトガル人ではなく?」ってなりませんか?わたしはですね、なりました。
とくにですね、「名附遊女ってはじめて聞いたんだけど」ってなりませんか?というわけで、いろいろ調べてみたんですけども、更に謎が。
ちょっと図をつくりましたので、ご覧ください。(出典は最後につけます)
長崎丸山遊郭は、幕末の徳川幕府が安政5年に安政五か国条約を調印するまでは、国内唯一の異国人を受け入れる遊郭でした。安政6年からつづけざまに異国人居留地に寄り添うようにつくられた、長崎稲佐・横浜港崎・函館・大阪松崎・神戸福原・横須賀大瀧・江戸築地新島原といった遊郭を運用するうえでの、もろもろの取り決めのモデルケースにもなっています。
その取り決めは、表を見ていただいたとおり、実に行き当たりばったりというか「異国人遊郭って言ってたのに日本人遊客もいるじゃん?!」という、ゆるゆるさ。徳川幕府の売春取締りは行き当たりばったり感を個人的に感じているのですが、丸山遊郭でも同じです。
①日本行遊女
日本人しか遊客にとらないという最上級の遊女のはずです……が、②から説明する遊女たちの存在をみると、実際どうだったのだろうという疑問は残ります。
②紅毛行遊女
こちらは「長崎丸山といえば出島へいく丸山遊女」のイメージそのままですね。この方たちが出島に行くルートに関しては、また別の日にまとめたいと思っています(まだ特定できていない場所があるもので…すみません)。
出島へはオランダ商館長など上役やその身の回りの世話をする限られた人々、それも男性しか上陸許可を許されませんでした。妻子であっても女性の上陸は不可でした。ちなみに商船の水夫さんたちは商船内で海上生活だったそうで…他人事ながらつらいです。
また、欧米人とのあいだにできた子供については死産の場合でも長崎奉行所に届ける必要があったそうです。
③唐人行遊女
唐人屋敷は出島とは違い、身分は関係なく上陸はできていたようです。もともと貿易で頻繁に訪れており、なかには帰化して通詞(通訳)として幕府に雇われることになる人々も排出しています。貿易で取引のある長崎の町人宅などを宿としていたそうです。出島ができたあと市内に居留地(唐人屋敷)がつくられ、そのなかに住むようになりました。
唐人とのあいだにできた子供については、とくに届け出は必要なかったとのことです。
④引附遊女
”引附遊女”に関しては、横浜港崎遊郭でも同様の契約形態の”名前だけ遊女”がいました。港崎遊郭の場合、その遊女鑑札(違法である私娼ではなく合法である公娼と証明するもの)を融通したり月々の上納金を納めてもらうことで見世の営業がうるおう、という両者にとっておいしい仕組みになっています。
長崎ではどのような契約になっていたのかは調べているところですが(2020年12月現在)、唐人屋敷や出島内の異国人と”個人的に契約”して出入りしていたということなので、丸山遊郭内の店には住まずに街中で暮らしていたのでしょう。
※ 安政五か国条約を調印後に、出島に住む異国人たちも通詞(通訳)などの役人を付ければ街中を散策したり丸山遊郭に直接行けるようになったそうです(ゆるい)。
それでは、また江戸時代の長崎で。
次はなにをまとめようかな…(アンケート機能が欲しいです)。