勉強する④の修正です、⑧『丸山遊女の種別と客種』③ 2020年2月追記
これは『「なんか気軽に丸山遊女を調べだしたら時代別ではなしが変わってきたぞ……?」と途方にくれた結果、時代別に図をつくってみた』という記事です。さすが天下泰平の徳川、江戸時代が長っっがーーーい!!です、つらい。
そもそも長崎丸山にいつから遊郭ができたの?というはなしなんですけど。このあたりは戦国時代から江戸時代、それと日本に貿易を申し込んできた国との外交史もみていかないと、単独での丸山遊郭史ってあまりおもしろくないことに気づいてしまったのです。
そしてわたしは世界史ぜんぜんわからないので、そのあたりは賢人さまたちに確認しながらすすめようと思います。
■ いつから長崎に異国人も行ける遊女屋があったのか?
時はさかのぼること室町時代、種子島に火縄銃を持ったポルトガル人があらわれたことからはじまります。いや実際はもっとまえからふつうにありそうなんですけどね、地理的に琉球も清国も台湾もちかいですし。
西洋人との外交ということからみていきましょう。
・種子島にポルトガル人が漂着してから6年後の1549年、鹿児島にかの有名なフランシスコザビエルさんが来航します
・その翌年、1550年に今度は長崎平戸にポルトガル船が来航します
・それから20年後の1570年に長崎平戸が開港します
ポルトガルさんのたたみかけかた、商売うまいっていうか勢いがすごくないですか?
そこから更に時は安土桃山時代まで飛びます、みんなだいすき織田信長も外交に興味しんしんの頃ですよ。なんか武器もってきてくれますからね、西洋人。本能寺の変を経て、豊臣秀吉が天下統一するじゃないですか?
・1588年(天正16年)、豊臣秀吉が長崎茂木浦上をイエズス会より没収、直轄地とする
・1590年(天正18年)、豊臣秀吉が全国統一
・1592年(文禄元年)、朱印船貿易がはじまる
この翌年、ここからです。
・1593年(文禄2年)、①筑前博多・柳町の遊女の一部を「古町・桶屋町・今博多町」に移住させる。
②南蛮人を相手にした「恵比寿屋」が長崎に進出
機を見るのに敏、とはこういうときにつかうのでしょうか。ビジネスチャンスは逃さない商売人ってむかしからいるんですね。あたりまえだけど。
■ 長崎丸山遊郭成立後の遊女階級変換図(幕末まで)
ほんとうはこの変換に長崎内外での外交史をいれたかったんですが、時間がなくて。というわけで、なんとなーく、こんな感じだよというのをお伝えできたら幸いです。外交史は来年から頑張ります(2020年12月末現在)。
今後、吉原細見などで丸山遊郭を発見したらまた変わってくると思いますが、現状調べたところではざっくりと以下のようになっております。
①元禄期(1688年~1708年)※リンク先:コトバンク
・『生類憐みの令』
・ 美術・工芸品・能や歌舞伎、浄瑠璃の発展、職業文化人の登場
・ 長崎ではポルトガル人追放のため、平戸から出島へオランダ商館が移転
・ 海産物の輸出、砂糖の輸入貿易が中心
②享保期(1716 ~ 1736年)※リンク先:コトバンク
・『享保の改革』『享保の大飢饉』
・ 長崎『享保の大水害』、幕府の要請でベトナムから象の雌雄が輸入され江戸へ、ビードロが長崎土産になる
③宝暦期(1751 ~ 1764年)※リンク先:コトバンク
・『宝暦の飢饉』『越後高田の地震』
・ 錦絵の確立と浮世絵の流行、国学と蘭学の隆盛、『解体新書』翻訳
・ 嘉永6年(1853年)ペリー、ロシア使節プチャーチンがつづけざまに来航、開港したことで事実上の鎖国が終了
・ 翌嘉永7年(年号改め安政元年)には安政の南海大地震・東海大地震、更に安政2年に安政江戸大地震
・ 安政5年(1858年)安政五か国条約締結 ※リンク先:コトバンク
・ 安政7年/万延元年(1860年)より長崎大浦周辺が埋め立てられ、新たに外国人居留地が誕生する
④慶応期(1865~1868年)
・ 薩長同盟、大政奉還、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争
・ 長崎大浦天主堂完成
・ 開港に伴い新たに作られた異国人向け遊郭へ丸山遊郭からの遊女派遣要請(引附・仕切遊女が実質的な公許遊女に昇格 ※追記2020年2月)
■ 鎖国令からはじまった丸山遊郭のその後
異国人も登楼できる遊郭としては、安政~幕末にかけてその個性をなくしていきます。昭和31年に成立した売春防止法のあと、猶予期間を経て昭和33年に営業停止になっています。
ここまでが、丸山遊郭の基礎知識なんじゃないかなと。次からは、これまでの記事使いながら別の話題に移りたいなと目論んでおります。
丸山まで載ってる吉原細見か遊女番付探してるんですが、なかなか見つからないので情報募集中です~!よろしくお願いします。