体感覚とか、声の届き方についてのあれこれ。
実行機能についてを投稿する予定で、書きためていっていたのですが
まとまりきらずに最後の仕上げに至れるのを待っている、みたいな状況だったところに
書きたいことがやってきたので
その勢いに任せてこっちから書くことにしました。
本当は順番立ててテーマごとに出していこうと、要素だけ書いた下書きを
すでに十何個も貯めてある(笑)んだけれど
その方が仕上がるから、というハッタツ脳で長年生きてきた工夫でもあり、当初の想定とは違う展開ですが
まあ私らしいと言うか
発達障害を語るところとしては、見事にADHDとASDのミックスさ加減が出てて良いかなと。
オーケストラとアカペラの融合、っていう素晴らしいコンサートを浴びまして
のっけのオケの一音からもう音がすごく、
からだにぶわーっと旋律がからだに染みてくる感じで。
私は感覚過敏のいい方の要素として、体感覚が人よりかなり敏感というか
外部の刺激がからだの内側に流入してくる、といったタイプの体質で
しんどい場面ではダメージがひどい、ということもあるのですが
一方、感動する場面においては
全身に感動が染みてくるので
(比喩ではなく、エネルギーがからだに染みてくるという体感がはっきりある)
おそらく
物事により深く感動している、といった利点があります。
いいものを観聴きした時にも
「良かったけどからだに来るまではいってない」とか、「これは全身の細胞が振るえてる」とか
自分のからだの様子によって、自分の感動を測っているところがあって
ゴスペラーズさん、初めて生で聴いたんですが(生声だけじゃないゴスが初めてになる人も珍しいと思われ)
ひとりひとりが歌う時、それぞれの声がちゃんと私に染みてきたので
やっぱりゴスペラーズ力あるんだな~!、としみじみ体感を味わいました。
ワタクシRAG FAIRさんのライブには何度も行ったのですが、RAGへの感動の仕方はみんなが合わさった時にぶわーっと来る感覚だったと思うので(近々にあったライブには行けなかったので、個々人についてははっきりした記憶がない)
ゴスペラーズに関しては、アンコールで指揮者がメロ歌ってハモつけた一瞬だけしか
ハーモニーのみを聴いてなくはあるけれども、個の届き方が強い+合わさって最強、な感じなのかな?と思いました。
ちょうどMCでオケの指揮者の田中祐子さんが
『メンバーの声の届き方の質の違い』
といった話をしてて
「海外のあなたに歌っている」(村上さん)
「目の前の、身近なあなたに」(安岡さん)
「クラス35人全員をあなたとして、それぞれ平等に」(酒井さん)
「目の前のお客さん半分、オケ半分にあなた、と」(北山さん)
ごめん!黒沢さんを忘れたよ~~
たぶん、お客さんに対してあなた、だった気がする…
ここまで覚えていられたことも逆にすごくはある↓
私、感動すると
“感動したことに脳のキャパが取られて”
中身を覚えていられないので
伝えたいものが説明できない、っていう現象が起こるんですが
昔当事者の人と話した時「わかるー!」と盛り上がったので
わりと発達障害あるあるなのでは?
と、話がそれましたが
指揮者は音を感じるプロ中のプロ
(たくさんの楽器がいっぺんに鳴ってる中
ひとつひとつの楽器の音を聞き分けて指摘していくのを職業スキルとする)
な方ですが、
届く声を、体感で
“どの範囲に向かってる質”として聞き分けてるのは
やはり繊細な体感覚を持ってそれをフル活用してるんだな、と感じたし
指揮のときの身体の動かし方や、後半ゴスペラーズが歌ってる時
もう指揮を逸脱してダンスになってた(笑)ところの踊りの滑らかさ具合からしても、かなり
音を感じた時に身体の感覚に変換することに長けてるなぁー、と。
演劇に関わって声とことばについて深く考察と実験を成されていた、竹内敏晴さんという方が行った
「ある人が背中を向けて場に立っているところに、後ろから人が呼び掛けて
立っている人が、その呼び掛けてきた人の声が自分のからだにどう響いてきたか感じとる/
相手に届けるように呼び掛ける
レッスン」
というものがありまして、
何冊か本も出てるので気になる方はぜひご一読をと思いますが
私幸いなことに、竹内さんご存命中に直接レッスンの場に参加して体感したんですけど
「呼び掛けられた声が私の方まで届かなくてだいぶ後ろで床に落ちる」とか
「私の方までは来るが通り越して斜め前に行っちゃった」とか
「私には当たらず真横で落ちる」とか
「私にはたどり着いたが、弱くて反応していいのかどうか」
みたいな(これ、自身の体験だけじゃなくて本だったりレッスンの場の他の人の感想も含んでます
→レッスンの場に立ったと思うんだけど、前出のように
感動で記憶があいまい&たぶんハッタツ脳的なところで
あったことなんだかどうかミックスしちゃってる感覚)
立っている人は、相手の声が
“自分に届いた”と思ったら手を上げるのですが
なかなかストレートに相手に届く声を届けられる人は少なく
何度も模索しながら呼び掛けて行く、という行為を通して「ほんとうに響くということ」を体感していくんですけど
声は聞こえてても届いてない、いくら人に話しかけても伝わってる気がしない、という時こういうことが起こっているかもしれません。
感覚過敏な人はむしろなんでも受け取っちゃうのか?
でもおそらく、「届く」声の感じだとそんなにダメージを受けないで済むんじゃないかな??
逆に刺さるくらいの声は…?
などの考察とか、
昔は聴覚の過敏具合によりオーケストラの演奏聴くの苦手だったけど
今は好んで聴くようになれた、などといった話は
長くなるので改めて。
ともかく
そういう真っ芯をとらえた表現に触れると
こうして書くスイッチが入る、ということで。
あと、私ゴスペラーズのアルバム一枚だけ持ってるんですが
その中ですごく好きな曲の「いろは」
続いて星屑の街(どこかで流れたこの曲がいいな、と思ってアルバム買った)と
オーケストラのみでスタートし、ゴスペラーズ入って最初の二曲が
そのアルバムの曲だったので
二十二年越しの伏線回収、で
買っといて聴いといて良かったー!
元々この日の会場で
前の時間、別のものに行くことになって調べてたら
「なんじゃこのグッと来る組み合わせ」と思って、
チケット代に躊躇しながら(関係する人数考えたらもっともなことだし、感覚に従って良かったー!!)買ったので
何がどうつながるかわからんし
後から紐付くこともあるのね、と人生の面白さに嬉しくなった日でもありました。