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創作者の持つべきと言われる「他人視点」の罠

 ある小説家が悩みを抱えている。それは自分の書いた作品がいつまで経っても完成しないのである。なぜならその小説家は書き上げたものをいつも見返すのだが、今回ばかりは細かいところが気になって仕方がないのである。いくらチェックしてもしたりない。それでその小説家はとうとう、しばらく作家業を休むことになった。

 一般に、クオリティの高い作品を作り上げるコツとして、創作者は自身の作ったものを「見返す」ことが提唱される。なぜならそうすると、他人の視点で自分の作品を見つめることができ、粗相に気付けるからである。創作に限らず、破綻や矛盾などは、本人自身では中々に気付けないものだ。
 だから例えばひと晩眠って、改めて自分の作り出したものを見つめることで、より良いものができるのだ。

 しかし、この「他人の目線で見る」というのには罠がある。他人の目線。それはあたかも、自分が他人になり変われるかのように提唱されていることである。確かに創作は、それを作ったことを忘れるくらいに時間をおいて改めて見てみると、なんで気が付かなかったんだというほつれを発見できるものだ。
 そのことは良い。けれど、私達はどれだけ時間をおいても、自分自身であることをやめることはできない(記憶喪失とか、そういう異常事態は考えない)。だからこのように、「改めてチェックする」「他人の目線で見つめる」というクオリティアップの定番は、けして完全に創作者が他人の目線を手に入れているわけではない。

 それを忘れてしまうと、よくあるのが、自分の創作に無限にダメ出しし続けてしまうことである。つまり細かいことが気になりすぎるのだ。
 これは創作者が、その作品のことをよくわかっているからこそ起こり得る1つの不幸である。もしただの他人なら、初めて見る作品にそんな思い入れなどない。だからもっと大きな視点で、ざっくりとした粗を感じるのみなのである。
 けれど、創作者がなり変わった他人はそうならない。往々にして創作の細かな部分、些細な部分、小さなことにばかり気を取られ、実は他人がそこまで気にしていないことに、延々と捕まってしまうのだ。

 そのため、創作を見直すとなった時にはわかっていなければならない。

 創作者以上に創作にこだわりのある者はいないということ。そしてどれだけ他者の視点を持とうともそれを捨て去ることはできないこと。またそれゆえに、創作者は自分の作品の細かいミクロの部分ばかり気になって、大きなマクロな視点を持ちにくいこと。

 創作のクオリティアップのために作品を見直す際には、このような罠たちに注意深くあると良い。

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