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「分かろう」としたくなる人間と、「分からない」ことの意味

 分からないことは理解する必要はなく、それを理解させようとする試みは徒労である。なぜなら、それが「意味がない」からという理由ではなく、むしろ、その人が分からないことは、そのことに「意味がある」からだ。

 即ち、なぜ私たちは「分かる」ことが正しいのだと思っているのか、ということだ。もちろん、人間は知性の生き物であるから、物事を何も理解できないことや、そうしようとしないことに、大きな抵抗を覚えるものだ。「反知性主義」とも言われるそのような態度は、そのが搾取され、使役され、誰かの道具として生きる惨めな存在と定義する。
 なので、少なくとも今の社会では、反知性は悪だ。
 より賢く、より知っていて、だからこそ身を守り、豊かな生を送れるのだと理解される。そういう人間にならなければ、あっという間に「悪意」に利用され、死んでしまう。

 だから私たちは「分かっている」ことに意味を見出し、そうでないのならそうであろうとするし、そうさせようとする。だがそこには大きな見落としがあり、それは、分かっていることと同じくらい、分からないことにも意味があるということだ。
 そうでなければ、たとえば私たちは自分を、とりわけその過去である「分からない時」の自分を否定してしまう。成長を目的とした自己否定は良いが、そのつもりもないのにしてしまう自己否定は悪い。
 意味。
 分かる意味と分からない意味。なぜ自分がそれを分かっているのか、そしてまた、なぜ自分が分かっていないのか。そのことに思いを巡らせ、まさに自らを理解するという意味で、「分からない」ことに意味を見出す必要がある。
 自分なのか、誰にとってもそうなのか。そして理由はどこにあるのか、それともないのか、あるいは理由すら分からないようになっているのか。
 その上で、分かろうとすることに決め、分からないことを忌避するのなら良い。しかし何も「分からないまま」、分からないを、分からない自分を、分からない誰かを否定することは、せっかくある自らの「意味」をも見失っていることに他ならない。

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