「自分」を目に見えるものだと思うのは傲慢
自分のことは自分でよくわからなければならないという強迫が、人を「自分自身」に閉じ込める。これは、実際に知っているか知っていないかという事実ではなく、そうでなければならないと思っているかどうかという問題だ。
人は他人のことはわからないと諦めたようによく言われるために、ならばせめて自分のことはわかるべきだとまことしやかに囁いてしまう。そして自分とは、自分という存在にもっとも近しい者であると信じられているために、その「わかるべき」はより固い信念となって私達を縛り上げる。
だが、わかる「べき」というのは間違いだ。少なくとも、わかっていることか当然だという風潮は間違っている。なぜなら私達は自分より外側で生きているからだ。人生とは、自分以外のものに囲まれて暮らすことである。
だからその感覚器官は全て、外の環境の情報を手に入れるために発達した。内側に向いた器官はない。そのためどう考えても、私達は自らの感覚器官を内側に向けることはまったく得意でないのである。
ならば、努力すべきか。
私達は確かに得意ではない。自らのことをわかるのが。しかしそれならば、できるようになればいいのではないか。
ところがそれも違う。そんな努力は無意味である。何せ「自分」とは見えないからだ。その心や精神はどこにあるかもわからない。外の情報を手に入れることに特化した私達では、その存在を感じ取ることすら困難なのである。つまり元々、それをするようにはできていないのだから、努力の範囲外だということだ。
ただし、空を飛ぶために飛行機を作り出したように、技術は「自分をわかる」をもっと簡単にしてくれるかもしれない。もし、自分のことを知ることの価値が大いにあるのなら、そのように私達は技術や知識を使って、それをわかればいい。
自分をわかるとは、それくらいのことなのである。自分自身ではどうしようもないし、どうする必要もない。ただ、その価値がある時に、必要な道具によって、必要なだけ情報を切り出す。
そういうものとして捉えることか肝要だ。
自分とは、確かに自分に近しいから、手が届くと思ってしまう。でも確実に、自分を知ることは自分ひとりでは難しい。
自分について考える時、あるいは他人を推し量る時、ゆめゆめそれを忘れないことである。
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