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「普通に」とかいう、普通じゃないもの
普通を普通に求めることは普通に難しい。なぜなら「普通」は普通ではないからだ。どうしてかといえば、私たちの想像する普通は、その基準が普通ではない。「普通」とはとてもあいまいで無責任で、考えなしの言葉である。それを表現してしまうと、私たちが考えているよりもずっと、その伝わる基準は霧のように散り散りになってしまう。
だから「普通」という言葉で普通を求めようとすると、普通に、「普通より上」という意味を、私たちは隠してしまう。それに気づかないうちに、私たちは、「普通」を都合の良い道具として用いている。
「普通にやればいいよ」とか「普通で大丈夫」とか「普通にそうじゃない?」とか、普通を要求したり、確認したりする時、普通は「普通」という意味ではない。
とりあえず普通と言っておけば、なんとなく思っている基準が含まれてくれるような気がして、私たちはそこになんの罪悪感もなく「普通」を振るう。普通なんて、どこでも誰でもどんな時も「普通」のはずだから、それはいつだって私たちが信じていいものだと思ってしまう。
でも普通は普通ではない。むしろ「普通」という言葉を使うことで覆い隠される私たち1人1人の感性や考えや経験や配慮や性格や…何もかも、「普通」はすべてなくしてしまう。何もそこにはない。「普通」という言葉に。「普通でいい」なんて嘘ばっかりに、私たちはどうしてなんの罪の意識も感じずに頼ってしまえるのだろうか。
この世に本当に普通なものなんてなんにもないし、あったとして、それに価値を見出せることなんてないはずなのだ。あえて「普通」であることなんて、だれも望んでいないはずだ。本当は「もっと良い」とか「もっと高い」とか「もっと強い」とか、そういうことを絶対に望んでいる。でも、それを最初から前に出すことはなんとなくトラブルになりそうだから使ってしまうのだ。「普通」という表現を、言葉を、都合の良い道具を。
しかしそれは解決にはならない。むしろ本当の自分の要求を覆い隠すことで、問題を根深くしてしまう。だからやめるべきなのだ。「普通」を。それが良いという感覚もまた、見直してみる必要がある。
普通は普通に良くない。でも私たちは普通に普通が好きで、ついつい、普通なことを要求しては、普通、それが上手くいかずに普通に苦労する。
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