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今、私達は他者を「思いやらない」自分を忘れている

 人間が他者を思いやる心を持つのは、人間が他者を思いやれない存在だからである。自覚があろうがなかろうが、私達にとって他者とはリソースでありコストだ。リソースとは資源であり、コストとは代償である。どちらにせよそれらは、私達の活動にとって、必要経費ではあるものの、私達の外部にあるがゆえに煩わしく、できれば最小限に抑えたいものとなる。
 他者はこれらだ。つまり私達にとって、他者はできる限り必要最小限に抑え、自分自身で活動できる幅を広げる方が望ましい。

 これは正直なところである。実際には、私達には建前がある。そうでなくとも他者を尊重しなければ前に進めないようになっているのは、社会がそのようにしたからだ。最も自然な状態では、きっと私達は完全な個人だろう。同時に、それは秩序もなにもない自然だ。その状態が嫌だったからこそ、私達は社会を作った。だから建前では、人間それぞれにとって、他者とは手を取り合うべき仲間である。
 けれども、その状態を、つまり社会があるという状態を、私達は当たり前だと思ってはいけない。それどころか、社会というものを認識すらせず、それが消えるはずのない世界だと思うことは、間違いである。
 この社会は、もともと存在しなかったものだ。それがまず、第1歩となる。つまり社会を構成する他者というものも、絶対に存在するものではない。それはいなかったのだ。けれど不都合があったので、作った。それが2歩目だ。
 今日の私達が他者を思いやる心を持つのは、それが与えられたからということを自覚せねばならない。

 原初の人間にとって、それは必要とすら思われていなかった心だ。徐々に、それがいるということが認識されてきた結果、今がある。だから時として、今でも、私達は他者を思いやる心をなくすことがある。それは忘れてしまったからではない。思い出したからだ。他者を思いやらないかつての状態を、ふと想起させた。それによって私達はいつでも、他者を蔑ろにできてしまう。
 この、調和した社会構造と、それによる他者への態度が、最初からあったものであると、勘違いしないでいたい。

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