予定を立てず、配慮のことを考え続けよう。
配慮はどこまですればいいのだろうか。そして配慮が必要なタイミングとはいつなのだろうか?多くの場合、それはある程度あらかじめ決められている。こういう人にはこうしましょう。こんなときにはやってあげて。これに対してはこのような対応が正解です。
でも、配慮が必要な時と場合と人は千差万別だ。それは何が正解かわからないものである。だから決まりきった通り一遍の対応はありえない。形式的な配慮など、大した効果もなくやる気もないということが明らかだからだ。
それなのに、私たちはどうしても配慮を「決めたがる」。もしもの事態に備えてこうしておこうと決定すれば迷わなくて済むから、確かに有用かもしれない。
ただ問題なのは、あらかじめ決めると、私達は配慮について考え続けることをやめてしまうことだ。配慮とはまさに、考え続けなければならない類のものであるはずなのに、それが起きていないうちから方向を決めることは、配慮を忘れようとしているに等しい愚行である。
そもそも、配慮はあらかじめ決められることではないばかりか、あらかじめ決めることはそれを忘れることに繋がる。私たちは予定を立てて安心したい。決め打って落ち着きたい。考え続けるなどストレスがかかる。
だけど、配慮とはそういうものであるはずだ。そうでなければならないもののはずだ。
考え続けることをやめてしまっては、それに目を向けることを無駄だと思ってしまっては、私たちはいつまでたっても見当違いな配慮ばかり繰り返してしまう。
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