創作物にある現代語が「ダサく」なる理由を考える
古来から現代まで、人間の言葉というのは刻々と変化している。かつて使われた表現は使われなくなり、新しい表現が生まれ、そうかと思えば昔の語彙が復活する。その意味も一定ではなく、言葉は生き物と言われるように、飽きることなく変化を繰り返す。それが進化か退化かは分からないにせよ、ともかく、私達の発する言葉は、その時代の私達にとってすら、未知が多い。
そんな中、こうした「現代語」を創作の中で表現するのは、特に今、大変である。様々なフィクションにおける会話──小説、アニメ、漫画、ゲーム、ドラマ、映画などなど──を見聞きした時に、ふと「それは言わないだろう」「古臭いな」と思うことはないだろうか。たとえば、いわゆる若者言葉と言われているようなもの、ネットスラングと呼ばれているようなもの、声に出すセリフではなくSNS上の書き込みなど、これらは特に、創作上では「ちょっと違くない?」となるようなものの筆頭である。
それらは、今のネット社会における最先端(優れているという意味ではなく、先端にあるという意味だ)の表現達だから、もちろん、完全に模倣するのは難しいという理由がある。しかしそればかりではなく、こうしたネットを経由して進化している言語表現が、根本的に「創作と合わない」理由があるのである。
実際のところ、冒頭での「現代っぽい会話」をよりリアルに落とし込むとすれば、上記のようになるだろう。これはかなり突き詰めているが、とはいえ、日常的なコミュニケーションとはこんな感じだ。
そして、これから分かる「創作と合わない」ことの根本理由とは、即ち「感覚的すぎる」ことに尽きる。
上記の会話を初めて見て、誰にとっても意味の分かる会話だと胸を張って言えるだろうか? それは無理だ。そもそも上記のようなスラングや、パロディ表現、ネタを盛り込んだ言語表現は、仲間内にしか通用しないからである。というよりも、だからこそSNSなどではそのような表現が用いられる。自身の所属するクラスタの中で、好きなものについて濃いやりとりをすることの快感。
そのためにも、言語はどんどん感覚的になっていく。それは外側から読み解かれることを考慮していない、まさに望む相手とだけ使える高度なコミュニケーション表現だ。
そういった、ある種暗号化された表現が、かつてなかったわけではない。仲間内、家族、恋人、同級生、その組織に所属していないと分かり得ないネタというのはいつの時代もあったし、今もある。だがそれらとは大きく異なるのは、ネットを介するとそのネタの変化が高速になることだ。多くの情報が行き交い、ネタがどんどんと流れてきて、それらを一緒に共有する経験も豊富。そうなってくると、交わされる言語表現というのは、少し目を離していただけでも追いつけなくなるくらいに感覚的に研ぎ澄まされ、そして簡略化されていく。
そういったリアルを、創作では表現しきれない。創作には確かにリアリティが必要だが、その元になるリアルがあまりにも分かりにくすぎる。現代の口語は万人に伝えようと考慮されていないからこそ、もしそれを創作表現で目指してしまうと、創作そのものの目的と相反してしまうのだ。
そのために結局、創作ではこのリアルへの解像度を下げて、提供することになる。それは、「今」にとっては昔のことだ。研ぎ澄まされていく何段階か前のものになる。ならばそれは「古臭い」「今は使われていない」ものにならざるを得ない。それがまさに、創作における現代語表現の、リアリティのなさだと言えるだろう。
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