品位の盾と大義の剣
品位が頑強な盾だとすれば、大義は強力な剣である。この2つは現代において装備しなければならない致命的な武具であり、特に公の活動をするのなら、その人々は必ず品位と大義がなければならない。
品位と大義の違いは、身を護るか討って出るかである。品位は私達を攻撃から守る。だからそれは、攻撃を受ける場合に必要なものであり、場合によってはその攻撃をかわすとか、逃げ出すとか、別の手段を取れる。
けれど、大義はそれとは異なり攻撃のために必須である。なぜなら、大義のない活動は社会的に許されないのが現代だからだ。今、大義は何より大切である。私達の手にそれがあることは、公に私達自身が承認されるための証となる。
反対に、大義がないければ全ては崩壊する。大義がなければその行動は承認されない。いかようにも。いくらでも巻き戻されて否決される。
つまり大義がないものは稼げないし、大義のないものに価値はなく、そして大義がないものには何をしてもいいとされる。誰がそれを判断するのか? それ大衆であり、社会だ。そこに流れる空気によって、彼らが発信する情報が反響し、影響を及ぼしあった結果としての気分次第で、大義の定義も意味も価値基準も決定される。
だからこそ、大義は強力な武器なのだ。
それは社会の力を振るえる武器なのである。
たとえあなたに品位があったとしても、大義の剣は防げない。
大義はそれほどまでに強く、しかし気まぐれだ。
それが故の枷は、大義がなければあなたの行動は、特に公の行動は承認されないことである。
品位は私達自身の、大義は社会の領分である。
あらゆる私達の思想、思索、意見、考慮、価値…大義はそれらを凝縮した、禍々しき現代の剣と化している。
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