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生の否定、「配慮」を正しく適切に

 配慮は常に正しいとは限らない。そして配慮は常に行き過ぎる。なぜなら配慮は無害だからだ。配慮は誰かを傷つけるものではなく、自制と忍耐を促すものだ。害など何もない。だからこそ、配慮は行き過ぎる。
 結果として配慮は、正しくなくなる。

 どんなものでも、やりすぎることは良くないと人は学ぶものだ。過ぎたるは及ばざるが如し。誰もが知っている。なのに、配慮はそうしてしまう。誰かを傷つけないというのは恐ろしい。その無害さに、静かさに、柔らかさに、人は騙されてしまうのだ。
 それは引き算である。つまり人は、その行える行為の種類を配慮によって減らされてしまう。そのことは、適切ならば良い。しかし引きすぎる時、その人のアクションは何もなくなってしまう。アクションとは生きるための行為だ。何かをすること、それはなんでも、その人の生を肯定することである。

 そう考えた時、配慮とはつまるところ生の否定である。そのことを私達はわからなくてはならない。あるいはそれを理解しようとせずに配慮を発進させるのは、待った方がいい。その振りかざそうとする配慮はどこへ向かうのか、どれくらいのものなのか、そもそもどうしたいのか、そういったことが決められてはじめて、配慮は適切な形になる。
 配慮は常に正しいとは限らない。無害ゆえに行き過ぎるその行為を、私達は自らの責任において振りかざすべきだ。

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