ステラの事件簿⓪《体操着、鳥のように舞う》
大人の方が子供より偉いなんていうのは当たり前の話だが、時として子供の方が大人を従わせることができることがある。それは第一に大人に余裕がある時、そして第二に、大人に余裕がない時だ。
「だ、誰にも言わないで! 違うの! これはちょっとした手違いで……」
「わかりました。じゃあ先生、僕のお願いも聞いてもらえますか?」
「で、できることなら……」
リビングルーム。ソファに腰かけた男の子は、傍らの大きな鞄を見やった。その中身を改めて確認すると、なすすべなく床にへたり込む女性教師を見下ろす。彼はふっと、不敵に口角を上げ、「お願い」を口にした――
「……鞄?」
大林星(ステラ)は下校途中だった。落とし物をよく見るために、少し目にかかり始めた栗毛の前髪をはらう。また髪を切りに行かせてもらわなきゃなと思う反面、美容室は高いから駄目だと母親に言われそうで、自分の、中学生という身分を恨めしく思った。星くらいの年齢の男子の髪を、上手くスタイリングしてくれるのはあの美容室くらいなのだ。けれど、そのようなこだわりなど、忙しい母親は理解してくれないに違いなかった。
「やっぱり鞄だ。交番とか遠いんだよな……」
星は大きめのスポーツバッグを見下ろして言う。地味な色目で、まるでこの路地の隅に隠れていたいかのように、電柱と塀の隙間に挟まっている。好奇心で引っ張ってみたが取れそうにない。星は、反対側から押したほうが早そうだと鞄のもう片側の側面に回った。
夕方には塾の予定がある星がこのように道草を食っているのにはわけがあった。今日は5限目の担当教師が体調不良とかで授業が自習になり、その影響で気持ち早めに学校を出ることができたのだ。星には友達はおらず、帰宅部だった。誰に話しかけられることもなく昇降口で靴を履き替えた彼は、そのまま一番乗りで校門をくぐった。
警備員にセキュリティカードを返し、学園の敷地内を出る。星の通う欧林功学園は県で1番と言っていいほどの進学校で、中高一貫校だった。私立ということもあり、元々セキュリティ面ではかなりしっかりしている。
だが、半年ほど前から頻発しているとある事件により、とうとう学園関係者1人1人にこのようなカード形態を義務付け、入出園を徹底的に管理することになったのである。
だが、関係者全員の苦労の甲斐なく、未だ犯人は捕まっていない。
中等教育棟を出て道沿いに歩いていくと高等教育棟があり、この時間はまだ、不気味なくらい静まり返っている。その静寂を横目に坂を下って、星はやっと、車の行きかう大通りに出た。
専用のバス停を無視し、徒歩で帰ることにした。発車までには大勢の学園生が乗り込むだろう。星は人混みが苦手だった。
幸いにして、星の自宅は学園から徒歩圏内であり、だからこそ母親は引っ越したのだが、ともあれ今日はそのおかげで、彼はこの鞄に出会ったのだ。
何が入っているかわからないが、星は内心でかなり面白がっていた。学園と家と塾との往復で無味乾燥な毎日を過ごしているのだから、今日くらい構わないだろう、と。学園の全校集会などでも散々注意されているが、本当であれば不審なものは触らずに即通報である。今の状況を他の学園生にでも見られたら、下手をすれば成績に響くかもしれない。しかし、星はそのようなことお構いなしに、鞄を電柱の陰から押し出した。
「こんなに重たいの、何が入ってるんだろ」
今まで恥ずかし気に陰に収まっていたスポーツバッグは、最早、中身を見るなら見ろと言わんばかりに星の目の前に鎮座している。彼はチャックを開ける前に、一応、怪しい仕掛けがないか観察してみたが、わかったのは星にわかることなど何もないということだけだった。
星は時刻を確認する。まだ大丈夫だ。この鞄を開けて、ちょっと中身を確認して、また元に戻すだけの時間はある。彼は鞄に手を伸ばし、チャックをジリジリと開けていく。何か、見覚えのあるものが覗いた気がし、もう少しでそれがわかるはずだ。しかし――
「あれ、星くん? ひとり?」
「……愛未先生」
宝城愛未が驚いた様子で立っている。その姿は、今朝、学園にいた時と変わらない。黒い髪を後ろでまとめ、薄化粧だが華やかな美人。彼女は学園で誰からも好かれている英語教師で、星も何度か、学園生活のことで面談をしてもらったこともある。とにかく学園生のために親身に一生懸命で、外見よりもそういったところが、愛未の好かれている理由には充分だった。
「その鞄、落とし物?」
「はい、さっき見つけたので交番に届けようと思って」
嘘は言っていない。星はこの鞄をたまたま見つけて、中身を見た後に110番しようと思っていた。
「そう、触ってないよね」
「ま、まあ……」
愛未の鋭い追及に、星は焦る。彼女はなぜか、何かを探ろうとしているかのように、星が背中に隠す鞄をじっと見ていた。
正義感の強い愛未のことだ。もし触ったどころか、中身を見るために開けようとすらしていたことがバレたら、確実に怒られる。悪いことや危険なことをしたら容赦がないのが彼女だった。
星は自分が、口下手で嘘が苦手なのがわかっていた。状況的に電柱の陰から引っ張り出したことはバレないはずだが、何か勘づかれて追及を受けようものなら、ポロっと白状してしまいそうだと思った。
「――あ、そういえば具合。先生、体調は大丈夫なんですか?」
「え……? あ、あー……うん、大丈夫、心配してくれてありがとう。早退させてもらおうとしたんだけど、保健の先生はなんともないって」
「……? 家に帰ってなかったんですか」
星はまず自分ばかりが質問されないように、とっさに愛未へ尋ねていた。彼がこの時間にここに来られたのは、愛未が体調不良で、5限目が自習になったからだ。星は愛未が話しかけてきた時、真っ先にそのことが頭をよぎっていたのである。
「い、いやー、帰ったよ。大事をとって休んでって言われたし……」
「じゃあ、どうしてここにいるんですか、着替えてないみたいだし」
「そ、それはー……わ、忘れ物! ちょっと学園に忘れ物してて、取りに行ってきたの!」
星には何故かわからないが、愛未が明らかに慌て始めた。面談の時に本人が言っていたが、彼女は嘘が苦手なのだという。事実と違うことを言うほど、どんどん申し訳なくなってくるとかで……。
「そ、それより鞄! 星くんこの後塾だったよね? 私が交番に届けておくから、今日はもう帰ったら?」
言うが早いか、愛未は手を伸ばし、スポーツバッグをグッと引き上げた。星が止める暇もなく、彼女はそれを肩にかけてしまう。
「先生……?」
「じ、じゃあね星くん! 最近変な事件も起きてるから、気をつけて帰るんだよ」
そう言って、愛未は背中を向けた。おかしい。星の知っている先生ならば、最近物騒だから送って行ってあげる、くらいは言う。まるでこの場から早く立ち去りたいとでもいうかのような態度に、星は違和感を覚えた。しかし――
「わかりました。先生もお気をつけて」
生憎、星には友達がいない。それは、避けられ慣れているということでもあった。彼はどのような事情があるにせよ、愛未が彼を避けようとしていることに諦めの気持ちのまま、頷く他なかった。
「う、うん、また明日……あっ!?」
愛未が振り返り、最後の挨拶をした瞬間、スポーツバッグの中身がこぼれだした。星が中途半端に開けていたチャックが、ここまでの扱いに耐え切れずに全開になったのである。
中身が、あたり一面に舞う。まるで、狭い巣箱に閉じ込められていた鳥が、一斉に大空へ飛び立とうとするかのように。
「あ、あわわわっ!?!?」
「これって……」
星がその1つを拾い上げる、裏、表と確かめ、自分の記憶にあるものと相違ないことを確かめた。それは主に教育機関やスポーツ選手などが使う、運動の際に着る特別な材質を持つ衣服――体操着だった。
「しかもこれ、僕のだし」
彼は、体操着の白いシャツの胸の部分に、「大林(星)」と刺繍が施してあるのを認める。空に舞った体操着が落ちてくる。見たところ、どうやら男子のものだけのようで、それをなすすべなく受け止める愛未の姿がそこにはあった。
「ち、違うの、これは、これは……」
「違う? これって半年くらい前から、体操着がなくなったっていう事件のですよね。すぐ学園に知らせないと……あと警察」
「待って! 学園も警察もやめて! このスポーツバッグ先生のなの、このままじゃ犯人にされちゃうの……!」
「ど、どういうことですか――?」
星は、泣きじゃくる愛未を慰めながら、どうにか体操着を回収し、一緒に自宅へと向かったのだった。
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