説明しすぎるとは「怒濤」のことである。
自分の思いを他者に説明する時には、あまり喋りすぎないようにと言われることがある。これはつまるところ、どれだけ説明を重ねても、思いを伝えても、結局は自分と他者は違うのだから受け止めきれないのだ、という事実を前提においた考えである。
あまりに多い量の情報は処理しきれない。だからそれを少なくしようというのが「正しい伝え方」だ。そういう考え方に基づいた時、次に気になるのが、どれくらいの量が適正な少なさなのか?ということである。
正しく受け止めきれる情報量とはどのくらいなのか。それを考えてみても、なかなか答えは出てこないはずだ。正しい量とは?伝え方とは?それはどのくらい正しいのか?そんなことが頭を巡って、本当のところ、何が真実なのかが分からない。
事実、どれくらいの情報を受け止めきれるかなどというものは、「人による」としか言いようがない。だから本来的には、そんなこと考えても答えは出てこず、求めている正しさは得られないというのは当然だ。
そのため、「どのくらいの量にすれば説明し過ぎにならないのか」と考えることは、そもそも間違いである。というより、「説明しすぎてはいけない」という言葉にミスリードされて、情報の正しい伝え方の基準が、その量にあるのだと決めつけてしまっている。
私達が、何を分かりやすいと思うのか。そして受け入れやすいと思うのかは、情報量によるのではない。それよりもずっと大事なのは「頻度」だ。
つまり、受け取る側が理解しなければならない情報があまりに立て続けに発信されることこそ、「分かりにくい」の原因なのである。それが、説明のしすぎだということの本当の姿だ。
たとえば、全く知らない分野のニュースを見聞きしたとき、その出てくる単語の奇々怪々さにめまいを起こす。それは、そんな単語たちの量ではなく、ニュースの中にみっちりと詰まった、立て続けの頻度に、理解を拒んでしまうからだ。
極端な話、1つの話題に対して、「分からないこと」は1つで充分なのだ。というよりそれを理解するということが、話題やテーマの1つである。だから何かを説明するという時点で、受け手にとって分からないことが複数出てくることはいたはだけない。
もちろん、理解度というのは人によるから、絶対に1つでなければならないというわけではない。けれど、多くの人々にとって、1つのテーマを理解するというのは容易であるから、それだけに絞るのが無難なのである。
そして、その分からない何かがどのようなものなのか説明してしまえば、すぐさま次の説明に移っていい。ということは、「AはBだ」程度の短い説明ができたのであれば、さらに「CはDだ」と続けていいことになる。全体の中で、どれくらいの説明すべきことが出ているのかは関係ない。
大切なのは、きちんと「解決される前に密度を上げない」ことである。説明とは、それが解決して初めて成功なのである。
できるだけ分かりやすいようにというのは、説明しすぎないというのは、「分からない」をぎゅっと1箇所に固めて怒濤にしないで、バラけさせ、1つ1つ解決していくことを指す。
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