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誰かにものを頼むときこそ必要な当事者意識

 当事者意識がもっとも薄らぐ瞬間とは、あなたを当事者にさせていたものがその手から離れる時である。自分自身がそれを手放そうとしてそうしている場合は、心構えができている上に、もう関わらない事柄であることが多いから問題ないかもしれない。しかし誰かに、自分が少しでも当事者であったものを任せようとする際に、あなたの当事者意識は悪い形で薄らぐことになる。

 そもそも当事者意識が薄らぐことで良くないのは、あなたが本来は当事者であるのにそう思えないことによる不都合のせいだ。あなたはそう思ってなくとも周りがそう思っていたり、あなたの自覚が足りないばかりに判断を誤ることがある。
 そういった諸々が、当事者意識の希薄さによる不都合だ。そしてこれらについては、確かにある程度は自覚と意識によって防ぐことが可能である。つまり、もう関わらなくて良いことを確認してから薄らぐ当事者意識は正常なことだし、自身の当事者意識が不当に薄らいだことに敏感になり、ちゃんと襟を正すことは良いことである。

 そのような中で、最も間違いやすいのは、誰かに何かを託したり頼んだり渡したりした際に、私達は往々にして当事者意識を手放そうとしてしまうことだ。
 だが、あなたが本当に当事者でないかどうかは、あなた自身だけの判断では決められないことがある。特に、今まで当事者であった某かを他者に開け渡そうとする場合、まず「当事者」の義務と権利が複製されることになる。そしてその複製された片方が、渡す対象に付与されるのである。その間、当事者という肩書は残ったままだ。
 さらに、当事者性は、その渡す対象が充分にそれを受け入れ、馴染ませ、ふりかざせるように意識の面でも技術の面でもできるようになって初めて、完全に受け渡されるのだ。その瞬間に、あなたが元々持っていた当事者性は霧散する。あるいは、「任せる」などの行為をきっかけとして、当事者性は徐々に相手に渡っていき、完全に渡されるまでに時間を要するという見方もできる。

 どちらにせよ当事者性は、当事者であるという事実は、瞬時にあなたから消えることはない。そのことがわからずに、当事者であるのにその自覚も意識もなくしてしまうことは愚かしいことである。
 できるだけ私達は、責任を逃れようと考えてしまうところだが、その欲求を優先して回るほど、世の中は、そして私達自身も、うまくはできていない。

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