人は置かれた環境で「頑張れるか」が決まる
頑張れないよりは頑張れる方がいいが、それは「いつでも頑張れる」ということではない。頑張ることは強要されるべきではないとわかっている人でも、頑張ることが準備さえ整えばいつでも放てる必殺技かのように思ってしまう。「頑張る」とはたまっていたエネルギーを消費するような行動ではなく、自分と、自分の置かれた環境それぞれの条件が整った時に発動できる秘技のようなものである。
秘技。そのために、頑張れればその効力は絶大だ。
しかし、頑張ることはその人だけでなく、その人の置かれた状況も含めて、選択肢となりえる行為である。誰でも、いつでもできるものでないのは能力の差ではなく、その人生、境遇、周囲の人々の差である。
それを理解せずに勧められる「頑張れ」は、言ってしまえば全て無責任な応援でしかない。無論、頑張ることそのものが、後の人生や境遇や周囲の環境をより良くする作用を持つ時はある。その場合、現在と未来を天秤にかけて、本人が頑張ることを選択するのは何も間違っていない。
しかし前提として、頑張ることは能力の差ではなく、とかく、環境という条件が整っていることが必要なのだ。それを忘れてはならない。特に、他人の頑張りを定義しようとする時、その人ばかりを見てしまうがゆえに、置かれた境遇は無視されがちである。
けれどそれこそ、頑張ることには多大な影響を与える要因なのだ。私達は確かに個人の能力で頑張ることもできる。でもそうさせない環境と、反対にそれを鼓舞する環境というものがあることを、見失ってはならない。
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