チャンスをつかむために努力する
努力は最も地道な反復、勉強、成長、達成。結果を得るための着実であり愚直な作業。そう思われている。それは誰にでもできるものであり、それをしないのは成功できない証。つまり、成功できない人は少なくともまず努力が足りなかった、そのためにかける時間が足りなかった、そんなふうに言われることもよくある話だ。
だから努力は、この世にあって、どのような人間にとっても平等に与えられた武器として扱われる。それがまことしやかにささやかれ、努力は、必ずその結果をもたらす当然のものでなければならない。
けれどそのことに、違和感を覚えずにはいられないだろう。なぜなら努力が報われないということは往々にして経験するからだ。それはけして、努力が足りなかったからではないとは思えない。でも結果が伴わないこともある。なぜか?
そこには、後出しの運と才能の理論が持ち出されるからだ。努力は大事だ。でもその先には運と才能の世界があるのだと。努力は誰にでもできて当然のものなのだから、後はあなたに必要なのは運と才能。
そのような、いわば結果のための「持ち物検査」が実施されるから、私達は違和感を覚える。では努力とはなんだったのか? それが最低限であることは承知できるにしても、まるでそれを無に帰すかのように存在する運と才能に恨み節も言いたくなる。
しかし、努力をどれだけしたかどうかのチェックは、その次に待ち構える運と才能のチェックのための前哨戦ではない。それは一次試験ではなく、運と才能は二次試験ではない。即ち努力とは、実のところ運と才能とはなんの関係もないものである。普通に考えればそうだ。努力で運も才能も手に入るはずがない。努力の才能や、努力できる運といった言い方があったとしても、少なくとも努力をすることと、運と才能とは別次元の話であると思わなければならない。
せめて、努力したからには運と才能がほしいと思ってしまう人情。それが私達の判断の邪魔をする。努力を単なる一次試験にしてしまう。だなそうではなく、努力とはあなたにチャンスを与えてくれるものだ。その分野に関する、結果なり次のステップなり成果なりを眼前に見せてくれるものである。
そこに運や才能は関係がない。ただシンプルに、努力はあなたにチャンスをくれるのだ。様々なチャンスがある中で、努力に見合ったチャンスを提示する。大抵は、努力によって握力を手に入れたあなたはそのチャンスの中でも自分に必要なものが分かるし、掴む握力も備わっている。しかし時には、その判断を間違ったり、握力が足りなかったりすることがある。
だから正しい努力があるとすれば、そのような判断力と握力をもきちんと鍛えられるものを言うのだろう。そのような努力をすることで、あなたは訪れるチャンスを適切に選び取り、掴み取ることが可能になる。そこにはもちろん、運も才能もない。
努力とはきっとそういうものだ。それは一次試験でもなく、最低限の何かでもない。それをすればするほど、私達にチャンスを掴む力を与えてくれるものだ。努力とはそれほどに分かりやすいものである。ちゃんと、すればするほど正しいチャンスを掴みやすくなる。
成功のためにはチャンスをものにすること。努力はそのチャンスのための下地である。だからこそ努力する。そのようにしてあなたはあなたの努力をきちんとなんのためのものなのか、きちんと向き合うのである。
※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ