正義を陳腐と思う心に
正義が必要化そうでないかと問われれば、必要だと答える人がばかりだろう。それがなければ明らかに社会は混乱し、荒み、自分達に不幸が訪れると誰もがわかっているからだ。正義はどう考えても必要である。
けれど一方で、その正義を誰が執行するのかは曖昧だ。むしろ私達は誰も、正義を振りかざそうとは思わない。それが必要なものと思っているものの、いざそれを扱おうとする時に、二の足を踏む。
なぜなら、正義とは面倒だからだ。そしてそれは悪目立ちして、いらぬ争いを起こすからである。この世の中はいつも、常に正しい状態で成り立っているわけではない。そしてそれでバランスを取ろうと必死である。そこに、理想的な正しさという意味での正義が振りかざされたら、そのバランスは壊れてしまう。だから誰も、率先して正義を持ち出そうとしない。
しかし、時として正義が執行される時はある。あるいは正義に見える行為が、世の中に突如として現れることがある。でもそれらは、正義ではない。単に、間違いが自然と正される自然的な仕組みだ。
私達人間が、自主的に発揮しようとする正義は、とても険しく難しい。だからそれを、私達は放り投げるのだ。そんなもの理想にすぎないと。どうせできないからと。陳腐だと。
けれどその冷笑そのものが陳腐であることに、気が付かなければならない。
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