伝えよう→「わかる」「わからせたい」をどちらも気にする
相手の立場に立って物事を考えるのは良いことである。どう良いことかと言えば、自分からしてみれば他人などびっくり箱と同じで何が出てくるかわからない驚愕の存在なのであるから、できるだけそれを理解しようと努めることは物事を前向きに進め、好転させやすくなるからである。
だから、コミュニケーションをうまく進める1つとして、「相手はそれを理解できるか?」「相手はどこが理解できなくなるのか?」ということを考えた上で、工夫することは大切だ。そもそも相手あっての「伝える」なのだから、そのことをよく考えないのは変である。
そういう「工夫したコミュニケーション」はずいぶん浸透した。もはやわざわざ言われずとも、相手のことを考えないそれが良くないことだと知っている人は増えている。
しかし、それにつれて、伝える上で大切なもう1つのことを私達は取りこぼすことが懸念されている。うっかりすると、人は1つのことに集中してしまって他のことを忘れがちだからだ。
伝える上で大事なことはもちろん、相手のことを慮ること、つまり「これはわかる形になっているのか?」と立ち止まって考え、工夫することである。そしてもう1つには、「これはわからせたいことなのか?」と立ち止まって考え、納得できる形にすることである。
わからせたいこと、とは文字通りの意味だ。あなたが、伝えるという行為を始める前に(その最中でも)、自問自答してその内容に納得する必要がある。
なぜなら、1つには自分が伝えたいことでなければ熱意に欠けてしまい、充分な「伝える」ができない恐れがあるからである。もう1つは、こちらの方が大切なことだが、自分自身にすら曖昧なものを、他人にわかってもらうことなどできないからである。
私達は歴史的に伝えることを研究してきて、その興味はどんどんと外へと向いていってしまっている。他人が理解するには、見やすくするには、聞きやすくするには、わかりやすい構成、受け取りやすい表現方法……。
もはや、自分のことなどわかっていることが前提で、そんな「伝わる」技術ばかりが目立っている。けれどそ前提はまだまだ怪しい。自分のことを完全に理解する人などそもそもいない上に、それをできるだけ可能にしようとすら、私達はしていない。
そして「伝える」ことを中心に、私達は結局、どちらかに偏ってしまう。他人か、自分か。「伝わるかどうか」か、「伝えたいかどうか」か。
結局のところ、どちらも中途半端で、上手くできている人は極少数である。しかも上手くできている人というのも、それは聞き手の協力あってこそなのだ。もちろん技術があることは認められるものの、伝える、伝わるとは共同作業であることを、私達はそもそも忘れてしまいがちである。
ならばこそ、私達は少なくとも、もっとも身近な存在である「自分」をわからねばならない。「これをわからせたいのか?」という観点において。「わかるか」どうかという、他人のことばかりでなく。
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