結論を先延ばしにすることは「簡略化への欲望」によって好まれないが、

 ただ早く早く。正しいとされている結論がほしい。そのためにことを急ぎたい。早く早く。そうなっては、もうその思考プロセスは、あなたの人生にプラスにはならない。

「簡略化」。
 これを好まない誰かはいない。みんな「簡略化」が大好きだ。それは間違いない。「つまり」「結論として」「要するに」…そんな言葉を誰だって待っている。手ぐすね引いて。今か今かと、それに出会うために生きているかのように。
 じっさい、簡略化が人生の目的だと言っても過言でないのは、それは本能からくる感情だからだ。早く見聞きしたいし、すぐにでも体験したいし、とにかく満足したい。欲望は限りない。次々とやってくるそれらをできるだけ多く摂取したものが人生の勝者だ。

 だから私達は、簡略化を拒むことができない。

 未来は何が起こるか分からないのだから。利益を得られる内に得ておきたいし、素早くそれを消化して次に行きたい。そんな気持ちが生じるのもいたしかたがない。それは生存戦略だ。そしてそこからくる私達の性癖である。
 その結果として私達の行動原理は絡的的になってしまう。たとえそうであることが良くないと知っていても、実感しても、しっぺ返しを食らっても、どうしようもなく思考はショートカットを尊ぶ。ふと魔が差すように、人間の選択は目の前にした長距離よりも、じっくりとした戦略よりも、時間をかけた築城よりも、あっさりとそしてすんなりと、かつすっきりしたものを選んでしまう。
 そのせいで数々の失敗を引き起こすだろう。短慮は浅慮と言われるように、事実として、それは熟考とはかけ離れた結果を生む。

 しかし、「慎重派」と呼ばれる人々がいる。その人々は簡略化を好まず、よく考えた上で結論を出すのではないか? そういった人々がいることで、全体としてバランスが取れるようにこの世は成り立っている。

 残念ながら、慎重派と呼ばれる人々であっても、簡略化の欲望に抗えているかといえばそうではない。そういった人々が好むのものは「より良い結論」であって、「よく考えること」ではないからだ。単に、そうした方が良いから熟考するのであって、早く出せるものなら出せる方が良いと感じているはずだ。
 もし、「考えること」それそのものが目的ならば、その思考パターンは生物として、そして社会として外れてしまっている。
 生きるためには、そのために役立つ「結論がいち早く」ほしいことは明白である。誰にとっても。だから、たとえどのようなタイプの正確であっても、簡略化の欲望に逆らうことは難しいのである。

 そのために大切なのは、その簡略化が「短絡化」にならないようにすることだ。それとこれとは話が違う。簡略化は不必要なものを仕分けることにも繋がるが、短絡化してしまった思考はもはや見境なしである。

 ただ早く早く。正しいとされている結論がほしい。そのためにことを急ぎたい。早く早く。そうなっては、もうその思考プロセスは、あなたの人生にプラスにはならない。

 自身の思考を律することは、いつだって大切なことである。

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